「怒らないであげてね」
すやすやと穏やかに眠る巴の顔を見つめながら、浅葱はぽつりと独り言のように呟いた。
こんな小さな慈しむような声をこの女が出せるのかと、巴を挟んで浅葱と相対して座っている立花は内心驚いていた。
立花にとって、藤堂浅葱という少女は明るく賑やかで、言ってしまえば阿呆な印象しかなかったのだ。
だけどそれは、自分が藤堂浅葱を見かけるときは、大抵が眼下で横たわる南條巴の隣にいるとき。
南條巴は、静かな落ち着いた女だった。それが立花の心象だった。だからそんな巴と比較すると、否が応でも浅葱は喧しい印象がついてしまったのではないかと。
彼は前向きに藤堂浅葱という女の印象について考えを改めようとしてみるが、如何せん六年間抱き続けたものは強い。
南條巴の隣にいないときであろうとも、この女は騒がしく阿呆なことをしてばかりではなかったか?とやはり元の印象に立ち戻ってしまった。
「…………怒らないでね。お願い」
いつまでも返事をしない立花に痺れをきらしたのか、再び浅葱は懇願の言葉を口にした。
先ほどと同じ、小さな慈しみをはらんだ声だった。
それがどうにも耳障りと居心地が悪く、立花は助けを求めるように、目の前で横たわる彼の恋仲の南條巴に視線を落とした。
その姿は、呼吸は落ち着き、顔の色も唇の血色も随分とよくなっている。元々、出血が派手なだけで大した怪我ではないと、巴の処置を担当した善法寺伊作は言っていたが。
鎮痛薬の副作用で、巴はこうして眠っている。二刻は経っただろうか。そう強い薬は飲ませていないと聞いているので、そろそろ目が覚めるかもしれない。
そうしたらひとつ苦言でも零してやろうと思っていたのだが、つい今しがた先に釘を刺されてしまった。
浅葱が普段の調子でぎゃあぎゃあと捲くし立てたのなら、そんなもの鼻で笑って捨て置いただろうが、立花はどうにも大人しい浅葱には据わりが悪い。
「怒りはしない、が。…………けれど、そうだな」
ほっと、浅葱が息を吐く。しかしそこで終わらず続けられそうな言葉に、一瞬にして訝しげな表情になる。
ころころと分かりやすく表情も態度も変わるその姿は、立花が知る限りでの藤堂浅葱の人物像によく沿っていた。
知らずのうちに、立花も小さく安堵めいた息を落とす。もっとも、それは浅葱には彼の機嫌の悪さと伝わってしまったのか、ぴっと肩が竦んだ。
「二度目はない。元々、そういった約束ではあったがな。今回が、最後の授業だと」
視界の片隅に浅葱をわずかに捉えながら、立花は無造作に広がった巴の髪をひとふさ掴んだ。
手触りの滑らかな、綺麗な髪だった。己の髪も相当なものであると自負しているが、男と女ではそもそもの質が違うのだと、立花は巴と恋仲になってから初めて知った。
このような美しい髪をもつ女が、つい先刻までいくさばに立っていたというのだから、この世は穏やかではないと立花は憂う。
南條巴は、元々くのいち志望の生徒であった。
しかし立花仙蔵と恋仲になってからは、徐々に行儀見習いの授業も受けつつあった。
立花としてはすぐにでも組ごと行儀見習いに転向してほしかったが、彼女にも都合などが色々あるのだろうと黙認していた。
昨夜、忍者志望の忍たまとくのいち志望のくのたまが参加する、戦場実習が行われた。
立花と巴が恋仲になってから初めての、大きな実りのある、そして危険性を伴う授業であった。
その実習に、巴は参加したいと立花に申し出たのだ。勿論、巴は未だくのいちクラスに在籍しているから、問題はない。むしろ参加を義務付けられている。
実習に参加しないのなら強制的に行儀見習いクラスに転向となると言う。
立花としてはそれは願ったり叶ったりだったのだが、参加を申し出た巴の意志の強い瞳に、すぐさま二の句を告げられなかった。
本当は、"駄目だ"と一刀両断したかったのだが、気付いたときには"何故か"と、その理由を尋ねていた。
まがいなりにも、六年間、くのいちを志してきた。
けして成績優秀ではないし、素質があったとも言えないけれど、自分なりに本気で、くのいちを目指してきた。
そのための区切りがほしい。諦めるための、けじめがほしい。
真っ直ぐな瞳で、確固たる意志をもった口調で、そう言われてしまったら、立花は頷くほかなかった。
忍の道は厳しく、途中で散ってしまった同級生や先輩、後輩を、何人も見てきている。
その厳しさは、くのいちとて同じだろう。その厳しい道を、六年間、南條巴は切り抜けてきた。生半可な覚悟と努力でできるものではない。
それを全て無碍にしようとしているのは、立花仙蔵の、言ってしまえばただの独善である。
立花は、巴が好きだった。だからくのいちになってほしくなかった。体を使ってはほしくなかったし、危険な目にも遭ってほしくはなかった。
そんな優しい、だけど確かな立花だけの独善で、南條巴は忍の道を諦めようとしている。
それならば。それならば、せめて、最後の花道くらいは、飾らせてやるべきなのだろう。
立花は、自身の身勝手を十分に自覚していた。己の独善を、南條巴に押し付けていることを、十分に理解していた。
その手前、その罪悪感からの、彼なりの譲歩だったのだ。その実習に巴を参加させることが。その実習を皮切りに、行儀見習いクラスに転向してもらうことが。
そして立花と巴、両人が参加した昨夜の戦場実習で、巴が負傷し、医務室で眠っているというこの状況に至るのだ。
自分も賛成したこととはいえ、立花はどうにもやるせなかった。許せなかった。悲しかった。
ほら、みたことか。だからいくさばなど、行くべきではなかったのだ。お前はくのいちに向いていないのに。
目覚めた巴に投げかけたい言葉など、いくらでも彼の頭の中にはあった。
けれど、先ほどの浅葱の懇願。そして、やはり、彼女にくのいちを諦めさせたい気持ちは自分の独善でしかないのだという自責が、立花をどうにか鎮めた。
「立花くんって、巴が孤児なのは知ってる?」
その問いかけに、立花は視界の焦点を浅葱に合わせる。巴の髪は、ひとふさ掴み、撫でたまま。
"ああ"と、小さく答えた。嘘でも見栄でもない、まことの答えだった。
立花と巴は、恋仲になる前からの知り合いであり、いくらかの言葉を交わしたことがある。その折、世間話や互いの身の上話をしたことも。
そのなかで、立花は確かに巴本人から聞いていた。自分は孤児であると、帰る家はないのだと、あの鋭い瞳に隠し切れない寂しさを滲ませて。
「なんで孤児になったか、知ってる?」
「……いや。そこまでは、まだ」
「まあ、聞きづらいよね。わたしが言ってもいいのかな。いいや、言っちゃおう。巴、寝てるし」
お前、人のそうそう触れられたくないであろう部分を、そんな勝手に。
喉のすぐそこまで言葉が出かかったものの、結局立花はそれを飲み込んだ。
純粋に、知りたいことであったし。浅葱の浮かべる表情が、からかいの色などまるでなく、痛ましいほどに悲しげだったからだ。
「巴ね、両親に捨てられちゃったんだ」
「…………そうか」
「あー……違うな。えっと、もうちょっと深刻で」
「いや、十分に深刻だと思うが」
「違うんだよ。巴、家族がいっぱいいたんだって。きょうだいが、たくさんいて。それで、」
巴だけが、両親に捨てられちゃった。
その言葉に、立花はすぐさま理解した。巴の身の上を、孤児になった経緯を。それが――口減らしと呼ばれる、行いであることを。
立花は、孤児ではない。家族が今も息災であるし、帰るべき家だってある。
だから孤児のこと、その実情、心境など、想像することしかできないが、それは、なんて。
孤児のなかに、優劣があるとは思わない。戦孤児の方がいっぺんに家族も村も亡くして辛い、いいや孤児の方が突然放られて辛い、などと。比べるだけ無駄で、むなしい。
だけど、どうしても。こう思ってしまうのは、それは立花が巴を好いている故だろうか。きっと、そうなのだろう。
戦のような、圧倒的で暴虐的なものによるせいではなく。突然両親が亡くなったわけでもなく、蒸発したわけでもなく。
他のきょうだいは選ばれず、自分だけが捨てるに値すると選ばれたとき、彼女は、どんなに。
村も家もそのまま在り、家族も自分以外はそこで暮らし続けること。それは、なんて。
「だからかな」
「……何がだ」
「巴ね。わざわざ、自分から貧乏くじ引いちゃうんだ。自分から、辛いものを選んじゃう」
「…………」
「いつだってそう。葬儀があること、後輩に伝えに行くのは巴なの。自分から、私が言いに行くよって」
「………………」
「実習での囮役だって、しんがりだって、先生達から指定されるとき以外は、自分から立候補しちゃう」
「……………………」
「確かに巴、実技の成績いいよ。強いよ。今まで、巴が囮とかしんがり務めて、作戦が失敗したことなんてなかった」
「…………………………」
「だけどわたしはいつもそれが、悲しかったの。巴がそうやって、辛いものを自分から、選びにいくの」
「………………………………」
「なんだか、すごく、こわいなって。いやだったの」
浅葱の声が、どんどん震えていく。震えているのは声だけでなく、肩まで広がって、ああ、泣くのだろうなと立花は悟った。
その泣き顔を見まいと、再び巴に視線をうつしたのは、立花なりの配慮であり、逃げであった。目の前でそう親しくない女に泣かれては、さすがの立花だって困る。
彼の視界に広がるのは、先ほどと変わらず、穏やかに眠る巴の姿。
きっと今回も、囮役やしんがりなど、危険な役目を担ったのだろう。自らそれを選んだのだろう。
だというのに、苦しむそぶりも見せず、こんなに穏やかな寝顔をするとは。立花も、目頭の奥が、妙につんと痛んだ。
「だからわたし、嬉しかったんだよ」
「…………何がだ」
「巴が、立花くんを選んだこと。立花くんと生きていくことを選んだこと。くのいちじゃなくて、立花くんのお嫁さんになる道を、選んだこと」
「………………」
「やっと巴、幸せなものを選んでくれたって。本当に嬉しかったの」
それは本当に幸せなものだろうか。今までと同じように、彼女は自ら、辛いものを選んだのではないか。
そう思ってしまうほど、立花は悲観的な考えをする人間ではなかったし、巴からの気持ちを疑うほど浅慮でもなかった。
南條巴は、確かに自分を好いている。くのいちを諦めることに多少の戸惑いはあれど、自分の妻になることを、喜ばしく思ってくれている。
立花は、そう信じていた。彼の数少ない欠点である、自信家な面のせいではない。事実、南條巴は、立花仙蔵を愛していた。
だから浅葱がいうとおり、巴は幸せのため、自分を選んだのだろう。自らの幸せを考えて、立花仙蔵を選んだのだろう。
遠き日に、口減らしに選ばれてしまった少女が。いつだって自ら辛いものを選んでしまっていた、悲しい少女が。
ようやく幸せを選んだ。立花仙蔵を選んだ。それは確かに、どんなに嬉しいことだろう。立花は、ぐっと目を瞑って込み上げる何かを堪えた。
「だから、怒らないであげてね。きっとここまでの無茶は、これが最後だと思うから」
「…………ああ」
「あと、あ、これは立花くんが怒らないでね」
「何だ」
「捨てないでね。巴のこと。大事な人に捨てられるなんて、一度で十分だから」
「…………」
「一度だって、本当は、起きてほしくなかったはずだから」
ぴくり、と立花のこめかみがひくついてしまったのは、致し方ないと言うべきか。
いやしかし、と。立花は心の中で数をかぞえる、心を落ち着かせる、感情的にならず、冷静になろうとつとめる。
藤堂浅葱は阿呆ではない。いや、阿呆ではあるが、自分が今まで抱いていた印象ほど、阿呆ではない。
こうやって巴のことを気遣える、優しい人間だ。巴を痛ましく思いすぎて泣いてしまうほどの、優しい彼女の友だ。
それならば、その忠告を受け入れようと。立花は、彼にしては寛容な心で、その浅葱の言葉を胸に留めた。
そして、改めて浅葱に向き直る。もう涙は拭われているが、鼻の頭が赤い、それを隠そうともしない不恰好な顔だった。
「承知した」
「…………えへへ。ありがとう」
「だけど藤堂。あまり私を見くびるな。そして、買いかぶってもくれるな」
「ん?なにを?」
「私だって…………」
顔こそは浅葱に向けたまま、だけど視線を巴へと立花は落とす。
相も変わらず穏やかな表情で眠る巴。愛おしく、悲しく、どうしようもない彼女に、ついに立花はその頬へと触れた。
ぴくりと、当然とも言うべきか。巴がわずかな反応を示す。くさっても、くのたまである。
すぐに、彼女は目を覚ますだろう。そして自分と浅葱を認識した瞬間、きっと謝罪の言葉を述べる。
そういう女なのだ。南條巴という女は。
自分を顧みず、他人を気にかけ、自ら辛いものを選んでしまう。だからこそだろうか、口減らしに選ばれてしまった少女。
「自分のために、南條を選んだ。自分の幸せのためだけに、南條を選んだのだから」
そんな彼女だから、立花仙蔵は愛した。
そんな彼女だから、立花仙蔵は選んだのだろう。