――――お前は、俺の甥を産むことになるだろうな。

それはとうてい、事後の男女がまどろむ布団のなかで出てくるべきではない言葉だった。
その証拠に、言葉をかけられた張本人である女・八雲美鶴は驚きのあまり目を見開き、そして意味を理解した途端に寂しそうに笑う。
あまりにも直球すぎたか、とその表情を見て、言葉の主・潮江文次郎はついつい謝罪が口をついて出そうになるがぐっと堪える。
これはきっと事実だ。事実なのだから、謝る方がよほど残酷ではないだろうか。意味のない謝罪は、よけいひとを傷付けるものだ。
だからせめてもと、潮江文次郎は自身と向き合って横になる女をぐいと引き寄せ、その胸板に顔を押し付けた。

潮江文次郎と八雲美鶴は、ふたり揃って忍術学園を卒業すると同時に結婚した。
それは昔から決められていたもので、反対する者などいるはずもなく、両家が諸手をあげて歓迎した婚姻だった。
潮江文次郎は、卒業後晴れて希望していた城仕えの忍者となった。
だから潮江の家には帰らず、その城にほど近い長屋で、妻となった八雲美鶴とふたり暮らすこととなる。
ふたりきりでの新しい生活は、大きな問題は特に起こらず平穏なものだった。
潮江文次郎は、八雲美鶴にこれといって不満はなかった。作られる食事、用意される清潔な衣服、甲斐甲斐しいまでの怪我への手当て。どれをとっても及第点を大きく超えている。
どうしてこんな女を、まともに愛してやれないのだろうと自分を苦々しく思うほどであった。
しかしそれを考えてしまうと、すぐに兄の姿や、自身の弱い部分が顔を出して、彼の誠実な部分をなじる。
だから潮江文次郎は、結婚してからも八雲美鶴を愛さずにいた。愛せずにいた。かつて初めて身体を重ねた夜に、語ったとおり。

八雲美鶴の方はというと、相変わらず潮江文次郎を愛していた。
彼を煩わせまいと言葉にすることはなかったが、その心のうちでずっと、潮江文次郎を想っていた。
潮江家もだが、八雲家も男家系である。八雲美鶴は、久方ぶりに八雲家にうまれた女児であった。
だから幼い頃からしつけられていた。嫁ぐことを定められている身ゆえに、どんなところに嫁いでも失礼のないよう、しつけは厳しいものであった。

自分好みの着物など、きせてもらえなかった。彼女に一番似合うものを、いつだって周りが決めて着せていた。
自分の好きなものなど、食べさせてもらえなかった。栄養をつけて健康なからだになることが一番だと、いつも出されたものだけを食べていた。
自分が読みたい本など、読ませてもらえなかった。立派な女性になるためにと、いつだって両親が選んだ本だけが、彼女には差し出されていた。
恵まれた望みだと知っていた。この世には着るもの、食べるもの、読むものすらない、困っているひとだっているのだとわかっていた。
だから自分の望みなどちっぽけで、贅沢だ。悩むにもあたいしない。
自分はこのままでいいのだ。誰かに全て決められて、選んでもらって、人形のように笑っていればいいのだ。
そうすれば周りはみんな笑ってくれた。喜んでくれた。"かわいらしい"と、"いいお嬢さんだ"と。

それなのに、そんな彼女にある日ひとつだけ転機が起きた。
許嫁を、潮江家の兄と弟。どちらがいいか、自分で選びなさいと言われたかの日のことだ。
弟の方を選んだのは、些細な理由だった。だけど八雲美鶴は、それによって生まれて初めて"自由"というものを感じた。
それだけではない。八雲美鶴が許嫁に選んだ潮江文次郎は、彼女の人形の部分の殻を破った。彼は、意図したことではないだろうが。
"お前が決めろ"と、潮江文次郎は八雲美鶴に告げた。
いつも決められてばかりで、選んでもらってばかりで、自分の意思など尊重されてこなかった彼女。
生まれて初めて"選んだ"潮江文次郎から、さらなる自由を告げられて、あの日彼女は何を思っただろう。何を感じただろう。
それがどれだけ嬉しいことだったのか、潮江文次郎は生涯知る由もないのだろう。
忍術学園での昼食、いつも友達と同じものを頼んでいたら"たまには自分で選べ"と言われたこと。
"自分に一番似合うだろうから"と選んだ髪紐を、"似合うかどうかより、自分がほしいと思ったものを選べばいいだろ"と呆れたこと。
そういった潮江文次郎の何気ない言葉のひとつひとつが、彼女の自由を広げていったこと。彼女の心をつかんでいったこと。
それをやはり、潮江文次郎は生涯気付かないのだろう。
自分を愛さない、愛せないと告げる男を心から愛することすら、自由でいとおしいと想っている哀れな女の心のうちなど、微塵も。

「…………こども、つくってはくれないの」

潮江文次郎の胸に抱かれながら、八雲美鶴は彼のところどころ傷の残る背をつうとなぞった。
八雲美鶴は、馬鹿ではない。むしろ聡明な部類の人間であった。
だからわかっている。潮江文次郎は、無意味に自分を傷付けるような言葉を放つ人間ではないと。
だからわかってしまった。いくら忍者が家族にすら仕事の内容を告げずとも――――彼が仕えている城の情勢が、悪いことを。
同じ村に住む民たちが語っているのだ。民衆に届いてしまうほど、その情勢はあまりにもひどいのだと推察するには充分だ。
覚悟を決めろと言っているのかもしれない。八雲美鶴は思う。
近々自分がいなくなる覚悟をしておけと、彼は言っているのかもしれない。頭の回る彼女は、そこまで考えてしまう。

元々、潮江文次郎と八雲美鶴が許嫁になったのは、かつてから親交が深かった両家を姻戚にするため。
今はふたりが結婚したことによりその目的は果たされたが、これですべてではない。
潮江家と八雲家の血を継いだ子が生まれなければ、この婚姻の本来の意味は成されたことにならない。
潮江文次郎と八雲美鶴が忍術学園を卒業し、結婚して四年経つが、ふたりのあいだに未だ子はない。
そうなると、八雲美鶴がこのまま未亡人となれば、先に待っていることは明らかであった。
ふたたび約束を、目的を果たそうと、潮江家と八雲家が婚姻を結ぶ。潮江文次郎の兄と、八雲美鶴のふたりをもって。
この時勢、珍しいことではない。なんなら、潮江文次郎と八雲美鶴の間にこどもがいたとしても、両家はさらなるこどもを求めて潮江文次郎の兄との再婚を八雲美鶴に求めるだろう。
それを断るすべは、八雲美鶴にはない。あるはずもなかった。潮江文次郎と出会ったことにより多少の自由を知ったとはいえ、彼女は生涯八雲家の"女"である。

「さすがにこぶつきにするのはな」
「…………こぶつきって。言い方がひどいわ」
「悪い」

そういった言い方をするということは、この四年。彼の方がこどもができないように気を付けていたのかもしれない。
生粋のお嬢様ゆえに、あまりそういった知識のない彼女はぼんやりとそんなことを考える。
そして同時に、胸が軋んだ。彼女の胸のうちが悲鳴をあげた。
潮江文次郎は、はなから長生きするつもりはなかったのだ。そりゃあ、早く死ぬことを望んでもいないだろうが、けしてそんな性分のひとではないが。
ずっと憧れていた城。そこの忍として、たった一瞬でも命を燃やすことができたのなら、それが彼にとっての幸いなのだ。
それだけが彼の幸いなのだ。自分はおまけにすらならない。むしろ自分は彼を煩わせてばかりだという。
だけどそんな彼を選んだのは誰でもない自分だ。そんな彼を愛したのも、惹かれたのも、自分の自由な心に従ったまで。
悲しくなど思わない。哀れになど思わない。それごと自分は愛してみせるのだと、八雲美鶴は気付かれぬよう唇を噛みしめる。

「兄上はお前を大事にしてくださる。俺とは比べ物にならないほど。お前も知っているだろうが、本当にいい方だから」

そうやって自身の兄を語る潮江文次郎の声は、あまりにも穏やかだ。
だけど彼の胸中はさほど落ち着いてはいない。むしろ薄暗いものがうごめいていて、ざわついている。
心から、そう思うのに。心から、そう思っているのに。兄のことを、心から、そうやって。
その兄が想う相手を、こうやって娶り、抱いて、どこかいい気になっている自分が確かにいるのだから、どうしようもない。
だから、自分はこの女を愛せないのだと潮江文次郎はあらためて思い知る。
そんな自分の不甲斐なさを押し殺すかのように、潮江文次郎も気付かれぬよう唇をかみしめた。



そんなふたりの苦しい夜から半月も経たないうちに、潮江文次郎が仕える城は窮地に立たされた。
どうにか落城こそ免れたものの、失ったものは大きく多く、潮江文次郎の命もそのひとかけらとなった。
夫の死に、八雲美鶴はひとつぶだけ涙を流した。どうか奇跡が起きてくれと薄い腹を抱くも、そこに実りはなかった。
からっぽの胎とともに一年喪に服し、それが明けると八雲美鶴はかつての義兄、潮江文次郎の兄と再婚する運びとなる。
反対する者は、誰もいなかった。八雲美鶴でさえ、それを受け入れていた。これがあのひとが望んだことなら、それでいいと心から。
かつての夜に潮江文次郎が語ったとおり、彼の兄はいい旦那だった。大事に、優しく、妻を愛した。
再婚してから一年も経たぬうちに子宝に恵まれ、無事生まれたのは待望の潮江と八雲の血を継いだ男児であった。
外見に潮江家の血を濃く継いだその赤子を見て、八雲美鶴は久方ぶりに涙をこぼす。
子を無事に生み終えた万感の思いと、かつての潮江文次郎のおもかげを、その子に見つけてしまったからだ。
そしてついに、終わってしまったことを知った。いまさらながら、彼女は思い知った。
子供を産んだことにより、彼にとっての甥御をこの体から産み落としたことにより――――わたしと潮江くんは、本当に、真実終わってしまったのだと。

選ばなければよかった?こうなるのなら、最初からお兄さんを選んでいればよかった?
そんなことは思わない。思うはずがない。あのひとはわたしの自由だった。あのひとを愛することは、すべてがわたしの自由だった。
不器用なあのひとを愛した。わたしをまっとうに愛せないあのひとを愛した。ひどいことばかり言う、やさしいあのひとを愛した。
それがどんなに不毛で苦しく虚しく、そして幸せなことだったかなんて、わたしひとりが覚えていればいいの。

八雲美鶴は子供を産んでから三年後、流行り病で若くして亡くなる。
けれど亡くなるその瞬間まで、よき妻であり、よき母であり続けた。
流行り病ということで隔離され誰にも看取られるなく、部屋でひとりひっそりと逝くこととなったが、彼女はいつもの微笑を浮かべていた。
もしも潮江文次郎が迎えにきたのなら、その不自然で場違いな笑みを人形のように思い、"気味が悪い"とかつてのように叱ったことだろう。
どうか叱ってほしいと彼女は最期の一瞬思った。けれど潮江文次郎が迎えにくることなどありはしないと、誰でもない八雲美鶴が知っていた。
彼を愛した彼女だからこそ知っていた。そうやって死んでもなお手を取り合えない寂しい恋を、彼女は最期まで愛していた。