意外にも三年生の夏休みの一件から、潮江文次郎と八雲美鶴の間に大きな亀裂は入ることはなかった。
多少なりとも、ぎこちなくなってしまったところは確かにある。
八雲美鶴の方はあれから二度と潮江文次郎へ好意の言葉を告げることはなかったし、学園で彼の姿を見かけても声をかけずに控えるようになった。
けれどもどうしても用事があれば、今までどおり潮江文次郎に声をかけた。そうなると潮江文次郎も、無視をすることはなかった。
そうやって、必要とあらば普通に会話をできる仲ではあった。けれど逆に言えば、今までのように少なからずとも雑談をすることは、なくなっていた。
これでいいと、潮江文次郎の方は思っていた。これくらいの距離の方がいいのだ、今までが親しくしすぎていたと、潮江文次郎は反省していた。
必要以上に関わってしまったから、彼女も自分なぞを好いてしまったのだろうと潮江文次郎は悔いる。
彼女が自分の何処を好いたのか知らない。聞こうとも思わない。だけど関わることもなければ、その想いも薄れていってくれるだろうと彼は望んでいた。

潮江文次郎は、なにも八雲美鶴を憎んでいるわけではない。
自分のみにくく弱い部分を数々暴いてくれる彼女を逆恨みする感情は確かにあれど、それは結局自分の弱さ故だと知っていた。
だけどそれを、完全に認め切れるほど彼もまだ大人ではなく。なにより、色恋は自分に必要のないものだと強く思っているのだ。
それは彼の元来の性分であり、忍を強く目指すあまりのことでもあった。
色んなものにがんじがらめになって、潮江文次郎はいまだ恋を知らずにいた。認められずにいた。それでいいと、彼は思っていた。
そんな自分を想い続けるのは、あまりにも不毛だろうと潮江文次郎は己の許嫁を憂う。それくらいの心、彼も持ち合わせている。
だからさっさと自分への好意など薄れ無くし、ただの許嫁に戻ってくれと、彼はそれだけを許嫁に望んでいた。



潮江文次郎と八雲美鶴が五年生の冬の、一等寒い夜のことだった。
先日、潮江文次郎は実習もかねた忍務を学園から受けていた。
それ自体は初めてではないが、今回受けた忍務は今までで一番危険なものであることは、説明を受けた時から理解していた。
そして彼の予想通り、一歩間違えれば大怪我、もしくは死の可能性すらあった忍務を無事終えて、先ほど学園に帰ってきたばかりである。
正門で潮江文次郎を出迎え労ったのは、事務員の吉野であった。"報告は明日起きてからでいいと、担任の先生からの伝言です"との言葉を受けて、潮江文次郎は心底ほっとする。
危険な実習帰りということもあり潮江文次郎は非常に昂っていた。気も、身体もだ。とてもまともに、人と会えそうにはない、ましてや忍務報告などできそうにないと思っていたのだ。
それなのに、門をくぐると、彼を出迎える人間がまたひとり。友人の誰かだろうかと一瞬潮江文次郎は思ったが、そういった性分のやつらではないとすぐに考え直す。
そもそも今は、五年生の忍たま全員に実習を兼ねた忍務が与えられている。
学園を出る前、忍務の内容は当然言わずとも、それぞれ何日ほどかかりそうかと友人たちと話していたところ、潮江文次郎が一番早いだろうとの結論になったのだ。
だから当然、彼を出迎えたのは、彼の友人の誰かではなく。彼の許嫁だった。彼にとってはただの許嫁であってほしい、八雲美鶴であった。
寒い夜だというのに羽織もかけず、いつもの桃色の忍装束からのぞく白い肌を赤くして、じっと潮江文次郎を見つめている。
"今までで一番危険な実習だと聞いたから"、潮江文次郎が何か言う前に、彼女はそう呟いた。
思わず、潮江文次郎は舌打ちを落とした。誰に向けてのものかは、彼にもわかっていなかった。
目の前の八雲美鶴に向けてのものか、危険な実習であると彼女に教えてた犯人か、それとも――――迷惑だと思いきれない、言い放ってやれない、自分の心の甘さにか。
"そうかよ"と短く吐き捨てるように告げると、潮江文次郎は普段より幾分も頼りない足取りで忍たま長屋へと向かう。
背後の八雲美鶴が驚いた気配がする。そして、おずおずと迷いながらついてくる気配も、潮江文次郎にはわかりきっていた。

「医務室に行かなくていいの」

遠慮がちにかけられたその声に、潮江文次郎は答えない。けれど代わりに、足をとめた。
今日はあいにく月の光も強い満天の星空である。だから彼女にも見えているのだろうか、と潮江文次郎は思った。
ああ。そもそも、正門付近には灯りがたくさんあるのだから、そこで見たのかもしれない。珍しく、彼にしては思考が散漫であった。
夜目の利く忍たまやくのたまには、今の潮江文次郎の姿がはっきりと見えることだろう。
忍装束の大半をべったり血で汚した、その姿を。布におさまりきらなかった血液が、ぽたぽたと地面に落ち血だまりをつくろうとしている。

「…………俺の血じゃないからな」

八雲美鶴は、比較的聡い人間であった。そして行儀見習いとはいえ、忍術学園のくのたまのひとりであった。
だから、潮江文次郎のその言葉の意味をすぐに知る。目の前の男が纏っている血の正体がなんであるのか、理解する。
反射的に、彼女はひゅっと短く息を飲んだ。それを、潮江文次郎が聞き逃すはずもなかった。
そして普段の潮江文次郎ならば、見逃していただろうが。気の昂っている状態の今の彼には、目に留めてしまったら、どうしようもなかった。

「怖いか」

瞬時に振り向き、八雲美鶴に相対するとぐっと距離を縮め、潮江文次郎は彼女の顔を両手で掴んだ。
そのてのひらも血でべったりと汚れているが、おかまいなしだ。むしろ、白い穢れの知らない頬が赤黒く汚れていくその姿は、潮江文次郎の渇いた心を癒す。
あえて親指の腹で顔を撫でてやると、目の下も血で汚れてしまった。へたくそな化粧なようだと、潮江文次郎は思わずくくっと笑う。
そんな目の前の男の様子を、ただただ驚き硬直しながらされるがまま、八雲美鶴は何も言わずに眺めていた。

「怖いなら、もういい」
「………………」
「選び直せ。兄上がいいと父に泣きつけ。今ならまだ間に合う」

十の歳から許嫁でありながら、潮江文次郎と八雲美鶴は今まで手を繋いだこともない。
今のこの、血で汚れた触れ合いが、ふたりにとって初めての接触であった。
そう。だから、まだ間に合うのだ。正真正銘、汚れていない身体だから、尊敬する兄になんの後ろめたさもなく受け渡せる。
自分にこんな風に血で汚されるくらいなら、優しい兄に、うつくしく汚してもらえばいい。二度と他の男のもとへ行けぬように。
そこまで考えて、ぐっと胃の腑からこみ上げるものがあることを潮江文次郎は嫌でもわかるが、それでも彼は考えることをやめなかった。
兄と、八雲美鶴のことを考えるなんて、健全な精神のときでもいい気分にならないことはわかりきっている。それなのに、彼もまともな状態ではないと自覚している今なお、あえて兄と八雲美鶴のことを考える。まるで自分を痛めつけるかのように。
ああ、なんて弱いのだろう。いくら危険な実習だったとはいえ、その帰りとはいえ、それで多少の混乱をしているとはいえ、なんてよわい。なんてみにくい。
――――やはりこの女は俺をみにくい部分を暴くのが得意だ。どうしてこんなにも、この女は俺を惑わせるのだろう。

「ひどいひと」

震えた声だった。目の前の血塗れの男への恐怖を、完全に隠しきれてはいない声だった。
だけどそれでも、その震える声を放った唇で、八雲美鶴は目の前の男にめいっぱい背伸びをして口付けていた。
ばちん、と潮江文次郎の脳内で何かがはじける。ああ、もうどうにでもなれと、潮江文次郎は目の前の女をかき抱き、そのまま自室へと連れ帰った。



八雲美鶴を他の男、ましてや兄のもとになどいけない身体にして、昂る熱を鎮めた潮江文次郎の胸中は意外にもおだやかだった。
結局は、彼女も兄を選ぶのだと思っていたのだろうか。結局のところ、自分は兄に勝てはしないのだと思っていたのだろうか。
それが二度と訪れぬ現実となり、誰でもない自分が兄の想い人である彼女を手籠めにした目の前の光景を、潮江文次郎はどこかゆめうつつ、ぼんやりと眺める。
事が終わってからしばらく肩を上下させ呼吸を整えていた八雲美鶴は、ようやく少し体力を取り戻したのか、彼と向き合って横になりながら、小さく呟いた。

「はじめてだったの」

そりゃあそうだろうと潮江文次郎は間髪を入れず思った。
今のこれが初めてでなければ、それはそれで大問題である。十の頃から、潮江文次郎と八雲美鶴は許嫁だったのだ。
そのうえで他の男に身体を許していたとなれば、とんでもないことだ。なんて、そんな潮江文次郎の考えを全て見通しているのか"違うわ"と困ったように八雲美鶴は笑う。

「何かを選んだのは、あなたが初めてだったの」
「それは前に聞いた」
「聞いてばかりだと叱ったのも、自分で決めればいいと言ってくれたのも、あなたが初めてだったの」

それは初めて聞いたな、とまたもや間髪を入れず潮江文次郎は思った。
かつての日のことだ。忍術学園に入学した、今はもはや懐かしく思えるかの日のこと。
八雲美鶴は、潮江文次郎にどう呼べばいいか尋ねた。そもそも声をかけていいのかと尋ねた。それを潮江文次郎が決めてくれと、委ねた。
それが、当時の潮江文次郎には今にして思えば煩わしく、そして自分の意思を持たぬ人形のように見えて、気味が悪かったのかもしれない。
あの頃とは比べ物にならないほど、今目の前にいる女はなによりも人間らしく潮江文次郎の目には映った。
血のかよう熱をもった肌、自分を見つめる涙に濡れた瞳、浮かされたような声、どれこもこれも、人形ではありえない。

「別に両親のことを恨んではいないけれど、思い返せば窮屈な子供時代だったわ」
「……」
「あなたはわたしの自由だった」
「…………」
「あなたを愛することは、すべてがわたしを満たしてくれたわ」

そう言い切ると、八雲美鶴はそっと目を伏せた。
彼女の言葉の意味をひとつも理解できない潮江文次郎は、何も答えることができずただそんな彼女の顔を見つめるだけ。
人に尋ねる前に自分で考えろと、言われて育ってきた。自分で決めて自分で責任をとれと、教育を受けてきた。
それを禁じられた子供時代など、潮江文次郎にはまるで想像がつかない。
寂しかったのだろうか。むなしかったのだろうか。そう思う余裕すら、こころすらなかったのだろうか。
自分なんかを選ぶことを自由と呼び、自分なんかを愛すことで満たされるのだと言う目の前の女が、とにかく哀れだと潮江文次郎は思った。
その憐憫と同時に湧く熱からは、あえて目を逸らした。おそらく生涯向き合うことはないのだろうと、潮江文次郎はわかっていた。

「俺も、お前のことは嫌いじゃない」
「うれしい」
「ただ、お前といると、お前と深く関わると、自分の醜さを知る。弱さに気付く。いつだってそうだった」

尊敬していた兄に、優越というみにくい感情を向けるようになったのは、八雲美鶴が潮江文次郎を許嫁に選んだからだ。
あれからだ。あれから自分はきっと、おかしくなった。二度と戻れなくなったのだ。
兄をただ純粋に慕うことも、高潔で正しい人間でありつづけることも、目の前の女を抱いた理由に、熱のある感情があるのだと認められないことも。
そんな人間に成り下がってしまったのだ。たったひとりの女を――――まともに想えやしない、不器用な人間だったからこそ。
潮江文次郎は、しみじみとそれを認めるように、ひとつ頷いた。彼にしては珍しく悲しいくらい、穏やかな表情だった。

「だから美鶴。俺はきっと、お前を愛せない。だけど他の女のことを愛することも、絶対に無い。お前がいる限りそんな目移りするはずがない」

普段のように"八雲"とすらさきほどの情事のさなか呼ばなかった名前を、ようやく潮江文次郎は口にした。
下の名前で彼女のことを呼ぶのは、これが初めてだった。妙に舌に馴染むと、潮江文次郎は素直に思った。
目を伏せたまま、八雲美鶴は笑った。"ひどいひとね"とつぶやいて、そのまま一筋だけ涙を流す。
それを拭う手は、ここにはない。泣く女の涙を払う、優しい男はここにはいない。事後に睦言どころか愛の無い言葉を放つ男しか、ここには。
だけどそんな男を愛することすら、八雲美鶴にとっては確かに自由のひとつであった。