許嫁が同じ屋根の下にいるというのに、潮江文次郎はさほど交流も会話も交わすことはなかった。
当然と言えば当然である。親同士が決めた許嫁であるし、少なくとも潮江文次郎自身が望んだ部分などひとかけらたりともなかったのだから。
それがなくとも、彼は元々異性どころか友人と遊ぶことにもさほど興味はなく、父や兄との鍛錬の時間を好んでいた。
だから許嫁ができたからといって喜々と構うわけがあるはずもなく、彼のそんな性分をわかっているのか父親もそれを咎めることは無い。
そんなつれない弟に代わるかのように、兄の方が潮江文次郎、自身の弟の許嫁を気にかけていた。
たびたび、家のなかを案内したり、ともに庭を眺めて話相手をしている光景を、潮江文次郎は目撃している。そのつど、彼は思うのだ。
本来は自分がすべきことを、兄に任せてしまって申し訳ないと。
そうやって軽々と自分の代わりをできてしまう兄は、やはりすごいと。
――――だけどそんな兄ではなく、自分の方を、あの許嫁は選んだのだと。
そう思うたび、わずかに、だけど確かに感じてしまう優越を、いつだって潮江文次郎は苦々しく思う。自分を殴ってやりたくなる衝動に駆られる。
そして続けて恨めしく、決まってじっと逆恨みにも似た思いで許嫁の八雲美鶴を睨むのだった。
彼女はたまにその視線に気づくと、潮江文次郎の方に向かって微笑みかける。
それに面食らって、逃げるように立ち去ってしまうのが、交流とも呼べない潮江文次郎と許嫁の数少ない関わりのひとつとなっていた。

そうして季節は春を迎え、潮江文次郎と許嫁・八雲美鶴の忍術学園入学の日を迎える。
入学金を払うと早々に、男は右、女は左と案内された道が違った。男児――忍たまと、女児――くのたまは、基本的に生活区域が違うのだと説明を受ける。
それに潮江文次郎はひどく安堵した。さっさと自分は忍たま長屋とやらに行ってしまおうと足を進めるも、それを誰でもない八雲美鶴が引き留める。

「お待ちください」

二人並んで、正しくは潮江文次郎がずんずんと先を歩いて学園を目指していた際も、許嫁たちの間にろくな会話はなかった。
潮江文次郎は当然、八雲美鶴からも話しかけることがなかったからだ。だというのに、この場になって彼女は、潮江文次郎を真っ直ぐと見据え声をかける。
うっ、と思わず潮江文次郎は怯んだ。だけどそのまま怯み続けることも、ましてや逃げることも、彼の矜持が許さなかった。
表情と姿勢を正し、"なんだ"と返す。本当に久しぶりに、まともに言葉を交わしたと、他人事のように潮江文次郎は思った。
同じ屋根の下にしばらくともにいたのだ。この二人の間に一切、会話がなかったわけではない。
だけどそれはきまっていつも、潮江文次郎の父親や兄がいるときに限ってだった。
では二人きりで話すのは、あの顔合わせの日から数えて初めてのことだろうかと、今更潮江文次郎は気付いた。

「今の説明を聞きますと、おそらく学園内でお会いすることは少ないかと思われます」
「そうだな」
「けれど一切顔を合わせないということもないでしょう。その際、わたしはあなたをなんとお呼びしたらいいですか」
「……………」
「それとも、学園内では一切話しかけない方がよろしいでしょうか。いかがなさいますか」

潮江文次郎と、八雲美鶴。この許嫁がまともに言葉を交わすのは、これが初めてのことだった。
潮江の家では、潮江文次郎から進んで話しかけることはなかった。兄にすべて代わりを任せていた。兄の優しさと親切心に甘えて。
だけどそれは裏を返せば、八雲美鶴の方から潮江文次郎に話しかけることもなかったということだ。
そりゃあ非常に声をかけづらい態度を自分もとっていただろうが、と潮江文次郎は多少反省しつつ、わずかな疑問。
自分が話しかけないから、八雲美鶴も話しかけてこないのだろうか?
学園でも一切話しかけるなと言えば、八雲美鶴は話しかけてこないのだろうか?
それは配慮からくる行動なのかもしれない。うつくしい気遣いなのかもしれない。
だけどそこに目の前にいるはずの少女から感情が何も読み取れなくて、潮江文次郎は苛立ちにも似た疑念を覚える。非常に受動的なその態度に、腹も立っていたのかもしれない。

「なんて呼べばいい、学園で話しかけない方がいいか。……お前は聞いてばかりだな」
「きちんと決めておいた方がよろしいかと思いまして」
「そう思うなら、お前が決めればいいだろう」
「わたしが?」
「俺はわざわざお前にどう呼べばいいかなんて聞かない。勝手に呼ぶし、用があるなら必然と話しかけるだろう」

もっとも、学園のなかでどうこう以前に彼女の名を呼んだことなど胸のうちですらないのだが、と冷静な自分をあえて無視して、潮江文次郎は改めて目の前の許嫁を見据えた。
そこにはぱちくりと目を大きく開き、驚きを隠しきれていない表情の少女がひとり。
正真正銘、潮江文次郎が生まれて初めて見る八雲美鶴の姿だった。そんな顔もするのかと、できるのかと、率直に彼は思った。
思い出す限り、いつだって八雲美鶴は小さく笑っていた。潮江家の主人や長男、自身の父親と相対するときですら、常に微笑を崩さなかった。貼り付けているかのように、それだけだった。
そんな姿を自分は人形のように思っていたのかもしれないと、今更彼は気付いた。愛らしいという意味ではなく、人間味を感じられないと言う意味で。
その驚愕の表情を眺めなら、潮江文次郎はそんなことをぼんやりと思った。目の前にいるのは、確かに人間のように見えた。

「…………わたしが決めたら、あなたにとって嫌な呼び方になるかもしれません」
「だとしたら、嫌だと伝える」
「あなたとは違って、用がなくても話しかけてしまうかもしれません」
「…………………………忙しかったり、相手にする気分じゃなかったら、そのまま放っておく」

我ながらなんと傍若無人な発言だろうと潮江文次郎は自覚していた。
自分が言われたなら確実に怒るだろう。それをいけしゃあしゃあと、他人には言いのけるのだ。なんて奴だと、潮江文次郎は反省する。
だけどその発言を向けられた当の本人の八雲美鶴は笑っていた。潮江文次郎が人形のように思っていたいつもの笑顔とは違い、少し困ったような色を滲ませて。

「ふふ…………ひどいひと」

初めて見たその困った微笑み、その表情に、潮江文次郎の方が今度は驚いてしまう。
あのときと同じだ。初めて会ったとき、"文次郎さま"と名前を呼ばれたとき。そのときに湧いたものと同じ胸の熱が、彼を襲う。
それを認めないとでも言うように、誤魔化すかのように、"うるさい!"と叫んで潮江文次郎はその場を逃げるように立ち去った。
いまだ八雲美鶴が自分を見つめていることには視線で気付いていたが、彼はけして振り返ることなく、忍たま長屋とやらの方へと向かったのだった。


忍術学園は忍たまとくのたまの生活区域は分かれており、教室も長屋の場所も離れている。
けれど食堂など共同で使う場所も確かに存在しているため、一切の関わりが絶たれているわけではなかった。
それは潮江文次郎と八雲美鶴、ふたりの間でも同様で、彼らは時々、だけど確実に顔を合わせる機会があった。

入学してから初めて顔を合わせたときは、八雲美鶴の方から頭を下げた。思わずといった形で、潮江文次郎も頭を下げた。
次に顔を合わせたとき、八雲美鶴の方から"お久しぶり、潮江くん"と声をかけ、彼の名を呼んだ。
思わず"潮江くんにしたのか"と返した彼に、"文次郎さまはあまりにも目立ちすぎるもの。かしこまりすぎた喋り方もね"と、八雲美鶴は笑った。
あるとき実家から文が届いた潮江文次郎は、"八雲宛にも文が入っていた"と八雲美鶴を呼び止めた。
"このまえ、わたしのことで同級生にからかわれている姿を見たわ"と八雲美鶴が気遣えば、"あいつは俺になんでも言いがかりをつけたいだけなんだよ"と潮江文次郎はふんと鼻を鳴らした。
そうやって、少しずつ、確実に、潮江文次郎と八雲美鶴は学園内でのわずかな機会に会話を重ねていた。
互いに――主に潮江文次郎の方が何かと忙しかったり、気乗りがしなかったときは、かつての宣言どおり無視をしたこともあったが、かつての潮江家での日々を考えると随分と進歩したとも言える。

「どうして俺を選んだ」

潮江文次郎が八雲美鶴にそう尋ねたのは、彼らが三年生の夏の長期休暇のことだった。
その日程に合わせて八雲家の主がふたたび潮江家を訪れるということで、八雲美鶴も実家には帰らず潮江家に身を置いていた。
中庭でひとり木刀を振るう潮江文次郎を、縁側に座りながら八雲美鶴は眺めている。
きりのよい回数をこなし終えた潮江文次郎も少し距離を置いて縁側に座ると、ひとつ息をつくやいなやそう呟いた。
元服を迎えた潮江家の長男。潮江文次郎の兄は、本格的に父の補佐をするようになり、今日も父の使いとして家を出ている。
この話をするのなら兄の耳には入れたくなかったからちょうどいいと、潮江文次郎はこの機会を見計らったのだった。

「許嫁のこと?」
「それ以外ないだろう」
「迷惑だったかしら」
「俺が先に聞いている」

忍術学園に入学したころは、ただ会話をするだけでもどこかぎこちなかったふたり。
それが今ではこんなに流暢だ。それはつまり、ふたりが多少なりとも親しくなっている証拠だろう。
そこに、潮江文次郎は近頃悩んでいた。自分たちは親しいのだろうか。親しくなっているのだろうか。それはいいことなのだろうか?
誰が相手でも、いがみ合うよりは仲良くしていた方がいいに決まっている。犬猿の仲の相手がいる潮江文次郎にも、それくらいはわかっている。
だけどそれはいきすぎてはよくないのではないのかと、潮江文次郎は考える時間が多くなっていた。

潮江文次郎と八雲美鶴は、親同士が決めた許嫁である。潮江文次郎が彼女の許嫁になりたいと望んだことは、ひとかけらたりともなかった。
だから許嫁とはいえそこには互いの感情、少なくとも潮江文次郎からの何か好意的な感情があるはずもなく、家同士を繋げるという思惑しか存在していない。
その範疇を越えてはいないかと、潮江文次郎は悩んでいた。自分たちは"親が決めたただの許嫁"におさまっているだろうかと、判断がつかなかった。
越えてはいけないと、おさまっていなくてはならないと、潮江文次郎は強く思っていた。
潮江文次郎は強く忍者を志している忍術学園の生徒だ。学年を重ねるごとに、その志は高く激しいものになっていく。
来年、彼は四年生になる。上級生になる。今まで以上に本格的に、忍になるため学ぶこととなる。
そういった時期故に、潮江文次郎は悩んでいた。――――すなわち、忍者の三禁をおかしてはいないかと。

話をするのは、許されるだろう。自分は彼女以外のくのたまとも会話をすることだってある。ただ異性と会話をするだけで三禁と言われては誰も彼もたまったものではない。
潮江文次郎はそう思うが、八雲美鶴と話すときにだけ見せる表情、声色、態度があることも確かなことだった。
如何せんそれを彼が自覚してしまっているのだから、どうしようもない。
それじゃあまるで彼女が"特別"ではないか。否、事実"許嫁"と特別な立場であるのだからある種では当然のことだろうか。いや、だとしても。
そうやって考えては、堂々巡りだ。自分一人では答えが出ないとようやく気付いた彼は、こうやって彼女と直接話すことにしたのだった。

そもそも、だ。潮江文次郎は、顔は正面を向けたままに、視線だけを少し離れた隣に座る八雲美鶴へと向ける。
そもそも、彼女だって悪いのだ。内心八雲美鶴を責めながら、潮江文次郎は学園での日々を思い返す。
忍術学園で生活している以上、八雲美鶴も潮江文次郎以外の忍たまと会話をすることがある。
その姿を見かけるたび、潮江文次郎は思うのだ。気付くのだ。"自分と話しているときと全然違うな"、と。
潮江文次郎以外の忍たまと話しているときの八雲美鶴は、普段と変わらず笑っている。
笑ってはいるのだが、それはいつの日か潮江文次郎が思ったかのように、人形を思わせるような人間味のないものだった。
自分だけ。自分と話しているときだけ、彼女は本当に笑っているように見える。人間らしく、ありのままで。

それは自分の願望だろうか。だとしたらそれはきっとろくな感情ではない。
それともそれは事実だろうか。だとしたら、彼女にその理由を聞かなければならない。
どうして自分にだけ、態度が違うのか。自分にだけ本当の笑顔を向けるのか。そもそもどうして――――自分を、許嫁に選んだのか。
そうやって特別扱いされるから、自分だって彼女を特別のように扱ってしまうのではないか。そうだ、お前が、お前が悪いのだ。
ああ、いつだって自分はこうやって彼女を逆恨みするばかりだ。初めからそうだった。
彼女はこうやって自分のみにくい部分、弱い部分を捲ってさらすのがうまい。にくたらしいくらいに。
潮江文次郎の胸のうちに、じわりと黒い染みのような形をした感情が滲み始める。
まるでそれを合図にするかのように、しばらく黙り込んでいた八雲美鶴は口を開いた。

「怒らないでね」
「約束はできない」
「ふふ。…………どちらを選んでもいいと、父に言われていたの」
「ああ」
「何かを選ぶなんて、生まれて初めてのことだったわ。いつも父や母たちが決めていてくれたし、…………決められていたから」

その言葉である程度を察せる程度には、潮江文次郎も大人になっていた。
おそらく八雲美鶴は昔から、厳しくしつけられていたのだろう。自由もあまり与えられていなかったのだろう。
彼女のどこか人形じみた部分の答えをひとつ得た気がして、潮江文次郎はひとり納得するかのように小さく頷く。

「どうしてわたしに選ばせてくれたのか、今でもわからないわ。いえ、本当にどちらでもよかったからでしょうけど。それと、せめてもの父の優しさかしらね」
「そうだな。とにかく、家と八雲が姻戚になれるならそれでよかったんだろう」
「…………潮江くんの方が気になったから」
「え?」
「潮江くんを選んだ理由。ずっと俯いているし、目が合ったと思ったらすぐに逸らされてしまったし、そうやって潮江くんの方が…………ふふ、気になったから」
「………………」
「でもね、今は潮江くんを選んでよかったと心から思っているわ」
「…………………………」
「好きよ、潮江くん。いいえ、文次郎さま」

八雲美鶴は、首を曲げ、顔をしっかりと潮江文次郎に向けている。
真っ直ぐな視線を受けているのがいやでもわかり、そして何よりも今の言葉に、潮江文次郎はどくどくと心臓を鳴らしていた。それはまるで警笛のようだった。
正直なところ、潮江文次郎も薄々予感はしていたのかもしれない。
許嫁である彼女が、自分にただの許嫁以上の感情を抱いていることに。
その好意をわかっていたからこそ、彼は必要以上に悩んでしまったのかもしれない。

「俺は、お前を、好きにはならない」

だからこそ、ここできちんとこうやって釘を刺しておきたかったのかもしれない。
八雲美鶴とは違って彼女の方に一切顔を向けることはなく、自分の膝あたりを逃げるように見つめながら、潮江文次郎はそう告げた。
自分はこんな人間だっただろうか。顔を合わせることもできず、逃げるように俯き、ひとと会話をするような人間だっただろうか。
なんて軟弱。なんて卑怯。なんてみにくい。まただ。彼女と関わると、いつだって自分のみにくい部分を知る。
正直なところ潮江文次郎にも、八雲美鶴に向けた好意は、きっと存在していたことだろう。たとえ、彼自身がそれを知らなくとも、認めなくとも。
だけどそれを踏み潰すほどの、ときおり、だけどこうやって確実に、彼女へ向けてしまう澱んだ感情の方が、強く濃かった。

「…………ごめんなさい」
「……………………」
「そうよね。忍者の三禁のことだってあるし、迷惑だったわね。ごめんなさい」
「………………………………」
「ごめんなさい、どうして選んだのか聞いてもらえて、舞い上がってしまったの。ごめんなさい」

潮江文次郎の唇は、何も紡がない。彼の脳裏は、何も言葉が浮かばない。
"もういい"と謝罪をとめることすら思いつきもしないほど、己のなかに渦巻く澱みに苛まれていた。
水中でもないのに窒息するのではと思うほど、息苦しい。酸素を求めて潮江文次郎が大きく息を吸うと同時に、ぽんと彼の肩が誰かに抱かれる。
驚きのあまり、息を吸い込みすぎ、潮江文次郎はしばらく呼吸が止まった。
その手の形、大きさ、やさしさを、誰よりも彼が知っていたからだ。手だけで、それが誰であるか判断するのは容易だった。

「謝らなくていいと言ってあげなくては、かわいそうだよ」

おそらく八雲美鶴に聞こえぬよう、潮江文次郎の耳元で小さく囁いたのは、彼の兄だった。勿論、潮江文次郎の肩を抱いたのも彼の兄の手。
留守だったはずの兄の突然の登場に、潮江文次郎は声すらあげられない。ただただ、背後の兄を見上げるばかりである。
帰ってきていたのだろうか、ずいぶんとはやい、いつのまに、いつから、だって、

「美鶴。文次郎も照れているだけだからね。きみも、この子が照れ屋なのはよく知っているだろう」

自分に代わるように八雲美鶴を慰めた兄のその言葉に、彼女の自分に向ける好意を聞いていたのだと潮江文次郎は気付いた。
ああ、それを兄には聞かせたくなかったのに。だから兄が出かけていたはずの、この機会を狙ったのに。
色恋に疎い自分でも、兄が彼女を憎からず思っていることだけは、自分でもわかっているから、だから。
――――――ああ、そうやって自分は兄を哀れんだのだ。薄々、彼女が自分に向ける好意を知っていたから、優越にひたって。
みにくい。きたない。いつもそうだ。自分はいつだって、高潔で正しい人間でありたいのに。
彼女が邪魔をする。彼女がいつも自分をみにくいばけものにする。お前が、お前だけが、俺を。
もはや泣き出したい気持ちにすらなりながら、潮江文次郎はどうにか唇を噛みしめて涙をこらえた。そうでもしないと、八雲美鶴に何を言ってしまうかわからなかった。