※以前書いた潮江の設定と少し異なっています。ヒロインの設定も少し変わっています。
潮江文次郎は名の通り次男である。
上にひとりさほど歳の離れていない兄がおり、厳しい父からの教育にもめげずともに励ましあい、日々切磋琢磨する仲の良い兄弟だった。
そんな潮江文次郎の兄は、弟は違い穏やかな性分の持ち主であった。
自分とは違い声を荒げたり、怒った姿を滅多に見せない兄のその性分を、潮江文次郎は眩く思っていた。
勉学、剣術、体力、果てには朝起きる時間や食事の量まで、すべてを自分の少し先、だけど確実にひとつうえをゆく兄のことを、潮江文次郎は非常に尊敬していた。
けれど、ただそれだけであったのは彼がまだ本当に幼い頃の話だ。年を重ね、物心も積み重ね、さまざまな感情を覚えてゆくにつれ、潮江文次郎は兄に対してわずかに別のものを抱き始める。"ああ、どうして自分はただのひとつも、このひとに勝れないのだろう"と、劣等感にも似た薄暗い感情を。
潮江文次郎とその兄が、もっと歳が離れていたのなら潮江文次郎も諦めがついたのかもしれない。
如何せん、近い歳の差という現実が彼元来の闘争心をいやでも燻らせてしまう。
潮江文次郎のその兄が、彼のように血気盛んで、後に出会う級友とのように真正面からぶつかりあい、罵り合えるような仲だったらよかったのかもしれない。
いつまで経っても彼の兄は穏やかで、むしろ歳を重ねるごとにそれは増してゆくようだった。少なくとも、潮江文次郎にはそう見えている。
罵り合うどころか、いつだって兄の方は自分のわずかな成長、美点を見つけては"頑張ったね"、"素晴らしい"と褒めてくれるのだから、そのたび潮江文次郎は率直に喜ぶと同時に後ろ暗い気持ちを抱えることになるのだった。
そのように兄に少しばかりの劣等感を抱えつつも、基本的には昔と変わらず仲の良い兄弟仲で過ごしていた、潮江文次郎が十を数える春の直前のことだった。
潮江家と曾祖父やその前の代から仲良くしているという良家の主人が、彼の娘を連れて潮江の家の敷地を跨いだ。
仲良く、とは言ってもその家――八雲家とは家同士の距離があまりにも離れているので普段は文で色んなやりとりをしているらしく、顔を合わせるのは実に十年ぶり。"お前が生まれるちょうど直前の頃のことだ"と、珍しく機嫌よく顔をほころばせた父の表情が、潮江文次郎の記憶には強く残っている。
潮江文次郎はその春から、家を出て全寮制のとある学園に入学することが決まっていた。兄の方はというと先に入学をしているわけではなく、今もこれからも家に居る。
長男なのだから当然だと、潮江文次郎は陰りなくそう思っていた。むしろ直前に控えた新しい生活を楽しみに、胸を躍らせるばかりであった。
そんな、学園――忍術学園に、かの八雲家の娘も行儀見習いとして入学するのだと言う。
驚くことにこれは両家で示し合わせたわけではなく、完全な偶然である。"やはり私たちは縁深い"と、改めて潮江と八雲の主人たちは客間で笑いあっていた。
そんな客間に、潮江文次郎は兄とともに大人しく控えていた。同じく八雲家の娘であろう少女も、自身の父の少し後ろで大人しく正座している。
潮江家には、主人の方針により女中は最低限の人数しかいなかった。そして潮江文次郎が近所の女児と遊ぶような性分であるはずもない。
つまりは、潮江文次郎は十を迎える齢にして、女性、特に自分と歳の近い女児と関わることがほとんどなかったのだ。
離れているとはいえ、同じ部屋、同じ空間に女がいる。その事実が妙に気恥ずかしくて、潮江文次郎は正座した膝上に添えた拳をさらに握りしめる。
兄の方だって同じだろう。自分ほどではないが、兄だって普段は自分と鍛錬をするばかりで、近所の女児ばかりか子供たちと遊ぶことなど滅多にない。
そう思いながら、ある種救いを求めるように潮江文次郎は隣に同じく正座する兄を伺い見た。そして瞬時、彼はひゅっと息をのむ。
潮江文次郎の兄は、真っ直ぐに八雲の娘を見据えていたからだ。潮江文次郎は、まともにそちらを見ることもできないというのに。
ぎし、と潮江文次郎の胸のうち、薄暗い部分が軋む。彼の劣等感がその身を主張するかのように悲鳴をあげる。ここしばらくは学園への入学がとにかく楽しみで、その姿はなりを潜めていたのに。
久方ぶりに感じるものであったせいか、普段よりもひどく、それは潮江文次郎を痛めつけた。ぐっと、彼は拳ばかりか下唇を噛みしめる。
「…………ああ、私たちばかり話して子供たちを置いてきぼりにしてしまったね。紹介してもらって?もっとも、兄の方には十年前に一度会っているがね。はは、きみは覚えていないだろうけど。まだ本当に幼子だったから」
八雲の主人のその言葉を受けて、潮江兄弟の父親は二人にそっと目配せをした。
その視線にすぐさま、兄の方が応える。深々と頭を下げ、名と歳を名乗り、八雲の主人を覚えていないことを丁寧に謝罪した。
そして次はお前の番だと、頭を上げた兄が弟へ視線で告げる。続いて弟、潮江文次郎の方も恙なく挨拶ができたのだが、さきほど騒ぎ出した劣等感のせいだろうか。
兄と比べると自分の挨拶はずいぶん陳腐なもののようだと、彼には思えた。年甲斐もなく、泣き出したい気持ちに潮江文次郎は駆られる。
「八雲美鶴と申します。そちらの文次郎さまと同じく、今年で十を数えます。以後、どうぞお見知りおきを」
けれど、彼の挨拶にさらに続いたその声。八雲の主人の娘が、自分の名を鈴の鳴るような声で呼んだ瞬間、潮江文次郎は別の衝動に駆られ、わずかな涙の気配は姿を消した。
歳の近い女児にまともに名を呼ばれることなど、それが潮江文次郎にとっては初めてのことだった。ましてや"文次郎さま"などと。
胸のうちに、劣等感とは別の何かが騒いでいるのがいやでもわかる。だけどそれが、その感情が何かは潮江文次郎にはわからない。
ただただ、先ほどよりもずっと気恥ずかしくて、顔が熱くなっていくことだけは、理解できる。理解せざるを得なかった。
そして、ようやく潮江文次郎は彼女に視線を向けた。この部屋に入ってからずっと、まともに顔を見ることもできなかった彼女に。兄はまっすぐ見据えることのできていた彼女に、ようやく自分も。だって、名前を呼ばれたのに顔も合わせないのは失礼ではないか。そうやって潮江文次郎は自分を奮い立たせる。
彼女の方は既に潮江文次郎に視線を向けていて、すぐさま二人は目が合った。小さく微笑まれ、ふたたび彼の胸のうちの何かが騒ぎ出す。逃げるように、潮江文次郎はすぐさま顔を俯かせてしまう。そんな自分を恥じた、情けないと責めた、今すぐ壁に頭を打ち付けたい衝動を、爪が喰いこむほど拳を握りしめることで耐えた。
そんなふたり、主に弟の様子を、じっと兄が見つめていたことに、潮江文次郎は気付かなかった。
それから半刻ほど経ち"おまえたちはもういい"と退室の許可を父親から受けたので客間を後にした潮江兄弟は、特に示し合わせることもなく自然と中庭に足が向かっていた。
縁側に座り、どちらも言葉を放つことなく無言で庭を眺める。潮江文次郎は、とにかく顔と胸のうちにある謎の熱を冷ましたくてしかたがなかった。
そうだ、素振りでもしようと中庭に置いている木刀に目をつけて、縁側から降りようと身を乗り出したその瞬間。
「可愛らしい子だったね」
兄のその言葉に驚き、思わずそのままつんのめって転びそうになるのを、どうにか潮江文次郎は堪えた。咄嗟に兄が腕を掴んでくれたおかげでもある。
驚愕の表情を隠しもせず、潮江文次郎は兄を見上げる。弟に対して、兄の方はいつもどおり穏やかな表情をしていた。
この兄弟は顔立ち自体は似ているのだか、このように表情が普段から違うため、あまり似ているという印象を周囲に与えない。
「文次郎はそう思わなかったのかい」
続けられた兄の言葉に、潮江文次郎の表情はさらに驚愕を増していく。その驚きようが面白かったのか、兄が思わずといった様子で笑いを零すと、はっと弟は慌てて表情を引き締めた。
潮江文次郎は今も昔も色恋に疎い性分である。だから他人、特に異性の容姿の良し悪しについても疎い。興味がない、と言った方が近しいのかもしれない。
だからそのせいもあり、すぐには兄の問いかけに答えられなかった。兄が"可愛らしい"と称した、あの八雲の主人の娘。彼女の容姿について、自分がどう思うのか。
異性の容姿についてなんて、彼は今まで考えたことがなかった。家の女中、近所の女児たち、彼女らの容姿について、良くも悪くも何か思ったことがなかった。
そもそも、あの八雲の娘の顔をまともに見ることができたのは一瞬だったのだ。すぐに視線を外してしまったから、と改めて潮江文次郎は己を恥じる。
その一瞬をどうにか懸命に潮江文次郎は思い出す。基本的に、彼は兄に従順なよき弟であった。兄からの質問には答えねばと、弟としてのさががいやでもそうさせた。
綺麗な髪をしていたような気がする。大きな目をしていた気がする。白い肌だったような気がする。上等そうな着物が、よく似合っていた気がする。そう、たとえるならば人形のようにそれこそ愛らしい女だったような、気はする。
"文次郎さま"。そんな彼女が、自分の名を呼んだのかと思うと、自分に微笑みかけたのかと思うと、少しばかり落ち着いたはずの謎の熱が再び湧き出してくる感覚に潮江文次郎は襲われた。
赤くなってゆくそんな弟の頬、顔を見れば答えは言葉で貰わずとも明白である。潮江文次郎の兄は、ひとつ穏やかな笑みをこぼした。
「それは結構。あちらも、私たちのことを少しでも好ましく思っていてくれたならいいけれど」
「なぜですか?」
「うちと八雲はね、昔から仲良くはしているけれど婚姻を交わしたことはないんだよ。うちも、八雲も、男家系だからね。なかなか縁がなかったそうで」
「…………まさか」
「せっかく同年代に異性の子供がいるんだ。結婚させない手はないだろう?」
潮江文次郎は鈍くはない。むしろ聡い部類の子供であると称していいだろう。
だからすぐさま、兄の言葉の意味に気付いた。明言されずとも、兄が何を言いたいのか先に気付いた。
さらに、胸のうちに熱が湧いて出るのを潮江文次郎は自覚する。それと同時に己がまだまだ子供なのだと、いやでも実感してしまう。
どうしてすぐに気付かなかったのだろう。どうして先ほどの挨拶の場に、そういった意図があることに気付けなかったのだろう。
自分はただただ同じ部屋に女がいることに馬鹿みたいに緊張して、それだけで頭がいっぱいになって、そのくせ兄に劣等感を抱く余裕だけはあって。
そこまで考えて、ぐ、と腹の底に違和感。異物感。潮江文次郎の兄への劣等感がふたたびうずきだしてしまった合図であった。
兄はきっと、すぐに気付いていたのだろう。あの挨拶、両家の子供同士が顔を合わせる意味に。だからしっかりと相手を見据え、見定めていたのだ。
ああ、どうしていつもいつもこうなのだろう。年も、背丈だって、さほど変わらないのに。兄だけが先に行く。兄だけが先を行く。いつだって俺の一歩先を。
「…………そうですね」
本格的に劣等感に飲み込まれる前に、潮江文次郎は一言兄にそう返すと庭へ降り木刀のもとへと走り出した。
弟が素振りを始めても、兄の方は何も行動を起こさない。普段なら隣で並んで素振りをしたり、手合わせに誘うのだが、今は縁側に座ったままだ。
それが潮江文次郎は有難かった。今はただ一心不乱、ひとりで素振りをしたかった。胸のうちの謎の熱、腹の底の劣等感を、少しでも振り払いたかった。
そんな素振りが百を超えたあたりで、多少落ち着きを取り戻したのか、潮江文次郎はひとつ大きく息を吐くと手をとめそっと兄の方へ視線を向ける。
兄の方も、弟を見ていた。見守るように、微笑んで見つめていた。その視線を何とも思わず受け止められる程度には、潮江文次郎は落ち着いてた。
だから、潮江文次郎はあえて考える。先ほど兄と話していた内容を、脳内で深追いする。
もしも兄や自分たちが考えるとおり、あの子供同士の顔合わせに、のちの結婚やそういった意味合いがあったのなら、それは。
…………それならば自分はあの場に必要なかった。兄と、八雲家の娘だけでよかった。どうせ兄の方が選ばれるのだから、最初から自分は必要なかった。
少しばかりの僻みの感情を自覚していたが、さしてそれに頭を悩ませることもなく、素直に潮江文次郎はそう思った。
そう思える自分に、安堵を覚えた。また余計な感情を抱いてしまう前にと、素振りを再開した弟を、やはり兄は優しく見つめていた。
しかし、潮江文次郎のその予想は外れることになる。
八雲の娘と顔を合わせたその日の夜、"八雲の家から忍術学園は遠いから、入学の日まで彼女はうちにいる"と父から告げられたことも、充分に予想外ではあったのだが。
それよりもさらに潮江文次郎を驚かせたのは、数日後。八雲の主人が帰る日となり、ふたたび両家の主人、両家の子供が客間で集まったときのこと。
その場で"おまえたちを許嫁にしようと思う"と、父が述べたのは、潮江文次郎、ひいてはその兄にとっても想定内であった。
けれど、それに続けられた言葉が、潮江文次郎にとっては何よりも予想をはるか高く飛び越えたものだった。
"文次郎、許嫁はお前だ"。父が呼んだその名前を、聞きなれた、呼ばれなれた親から賜ったその名前に、一瞬潮江文次郎は気付かない。
「美鶴くんが、お前がいいと言ってくれた」
父親が、自分に顔を、視線を向け、はっきりとそう告げたことで潮江文次郎はようやく今起きている事態を理解する。
選ばれた。自分が。許嫁に。兄もいたのに。兄と自分がいたのに。ふたりのなかから、自分が。目の前の女に。自分が。
理解はしても、思考はなかなか追いつかないようで彼の脳内は散漫としていた。
驚きのあまり何も返せない潮江文次郎に、彼をそこまで驚かせた張本人ともいえる八雲の娘、美鶴は小さく笑いかける。
その微笑みを受けて、潮江文次郎は微笑み返すわけでもなく、ようやく言葉を放つわけでもなく、何故か咄嗟に隣に座る兄に視線を向けた。
兄は、潮江文次郎を見ていなかった。いつかのように、じっと真っ直ぐ、弟を選んだ八雲美鶴を見つめていた。
ここで、どうして潮江文次郎は気付いてしまったのか。今でも、生涯、彼はそのときの自分を理解することはない。
兄に、八雲美鶴を見つめる兄の目に、わずかな情熱があったことを。色恋にてんで疎い自分が、何故そのときに限って気付いてしまったのか、一生。
さして歳の離れていない兄だった。
だけど自分よりずっと大人で、穏やかで、なににおいても一歩先をゆく兄だった。
さして歳が離れていないのに、すごいと思った。尊敬していた。だけど同時に、どうしてとも。
幼いながらに、自分はきっとこのひとに何か勝ることはないのだろうと、あきらめにも似た感情を抱いていた気がする。
だけど今はどうだ。兄と自分を天秤にかけ、自分を選んだ人間がいる。
兄が今も視線を向けるそのひとは、兄ではなく自分を選んだのだ。
潮江文次郎は、兄の視線のその先を追う。そこには、八雲家の娘。
彼女は相変わらず、潮江文次郎を見つめていた。
その事実を再確認して、その瞳と目が合って、潮江文次郎は生まれて初めて、どろりと自分のどこかに流れる醜いものを捉えた。
さして歳の離れていない兄だった。
だけど尊敬していた。なにもひとつも勝てないことに確かに劣等感はあったが、それは反骨精神となり、自分の励みになるときもあった。
しかしこの感情はきっと一切、なにひとつ、自分の糧となることはないだろう。
劣等感を抱きつつも、確かに、強く尊敬していたこのひとに、こんな感情を抱く自分はあまりにも軟弱だ。
そんな自分のみにくさ、弱さをこうやって目の当たりにさせた彼女とは、逆恨みと言われようとも、自分はきっとまともに向き合えないのだと潮江文次郎は何処かで確信していた。
元来の真っ直ぐで清廉な性分に似合わない、優越というみにくい感情を抱きながら、潮江文次郎はようやく"わかりました"と答える。
それが精いっぱいだった。それだけで精いっぱいだった。生まれて初めて覚えた優越に、今にでも飲み込まれてしまうそうな彼には、それが。