予感は的中した。
導かれるように、落ちるように、私は秀作くんを好きになってしまった。
きっかけは、勿論あの原っぱでの出来事。私を根気よく慰めてくれて、両親に愛されていたと信じさせてくれた、彼の底抜けの優しさだ。
思い返せば、私はこれまで恋というものをまともにしたことがなかった。
素敵だな、と思う街のお兄さんや忍たまの先輩がいなかったわけではないけれど、あれはきっとただの憧れに過ぎない。
秀作くんに対するように、あたたかくて、やわらかくて、だけど軋むような感情は一切なかった。
彼のことを考えると、胸にふわりとあたたかいものが宿るのだ。
自分でも驚くくらい優しい気持ちになれて、だけど少しだけ切なくなる。
そんなことは初めてだった。こんな感情、こんなやわらかな衝動、初めてのことだった。
だから、そんな初めての恋に私は戸惑っていた。
秋休みが終わり、忍術学園に戻ると時折彼と顔を合わせることがある。
すると、今までが嘘のように私は秀作くんに対してぎこちなくなってしまうのだ。
どうにか平静を装っているけれど、胸のうち、心臓はいつだってばくばくと高鳴っている。
先日、"次のお休み、いつもの街に行こうか"なんて耳元で囁かれたときには、倒れてしまうかと思った。
それでもなんとか堪えて、それどころかその誘いに応じてしまったのだから、私も私でちゃっかりしていると思う。
そして約束の、次の休日。馴染みになったと言っても差し支えない、学園から少し離れた街で、食事も見物もそこそこに、私と秀作くんは安宿の一室にいた。
部屋に入るやいなや、目元に口付けを落とされる。あの原っぱでも、同じところに秀作くんは口づけた。
あのときは泣き腫らしていたから正直痛かった。そんな真っ赤な目をして帰ってきたものだから、お世話になっている親戚の人たちも驚いていたし、心配してくれた。
ほら、私は恵まれている。だから大丈夫。だからいいほう。だから、だから、
そう思わなくていいのだと、それでも素直に悲しんでいいのだと、教えてくれたのは目の前の彼だ。
「…………そろそろ、閨房術の実習があるね」
突然振られた話題に、少し面を喰らってしまった。だけどすぐに思考を働かせる。
今は秋。秋休みが終わったばかりの時期。確かに、あとひと月もしないうちに例の実習、今秀作くんが口にした、閨房術の実習がある。
それについて、歯がゆく思っているのか。思って、くれているのか。
秀作くんの表情がくしゃりと歪む。その表情が、嬉しかった。愛しかった。ああ、わかってはいたけれど、私は随分と彼にやられてしまったようだ。
「今年も、志麻ちゃんは受けるの?」
「そうね。六年生のくのいち志望は、必須だから」
「志麻ちゃんは去年受けてるのに?」
「四年生と五年生は先に受けられるってだけで、免除されるわけじゃないから」
「そうなんだ。………………そっかあ」
歪んだ表情はそのままに、ひとつ溜息をつくと、秀作くんは次は私の唇に口付けた。
触れ合わせるのもそこそこに、舌先で唇を開くのを促されるように舐められる。
秀作くんの舌は、少し短い、ような気がする。それが今では可愛らしいと思えるのだから、恋とは本当に不思議だ。
いつもならここで素直にゆっくり唇を開くのだけどそうはせず、私はそっと秀作くんの肩を押した。
きょとん、と豆鉄砲でも喰らったかのようにあっけにとられた表情の秀作くんが、目の前にひとり。
「どうしたの?」
そうね、秀作くん。私、どうかしていたわ。
どうしてこの人の優しさに、もっと早く気付けなかったのだろう。
どうしてこの人からの好意を、答えを求められないことを言い訳に、受け流していたのだろう。
あまりにもそれは、不誠実だった。あまりにそれは、ひどい女だったわ。
「志麻ちゃん、具合悪い?」
「ううん、平気」
「口づけの気分じゃない?」
「ううん、そういうわけじゃないの」
「じゃあ、どうしたの?」
だけど今の私も、同じく不誠実で、ひどい女であるように思えた。
秀作くんのことが好きなのに、それを隠しながら、口づけを、抱かれようとするのは、それは彼を騙しているように思えた。
彼はいつだって、真っ直ぐ私に好意をあらわにして、伝えてくれているのに。
私だけ彼への好意を隠しているのは、あまりにも不公平なように思える。
そしてなにより、この関係、そもそもの始まりと、今の私の感情は、矛盾していた。
「もう、なんの意味もないから」
「………………それって、僕に抱かれることが?」
「うん。だって」
「そろそろ閨房術の実習があるから、もういいってこと?僕、お役御免?」
「違うわ。実習があることは、関係ない」
「じゃあ、どうして?」
"僕でもいいよね"と、あなたは言ったわ。
"好きじゃない人とするのが意味があるなら、僕ともして"と、あなたは私を抱いた。
"好きでもないひとと、こんなことしなきゃいけないんだ"と、あなたはくのいちを憂いた。
そうだった。そうだったの。今までは、確かにそうだった。
だけどもう違うの。私はあなたが好きだから、あなたを好きになったから、そもそもの根底が覆ってしまったの。
意味なんて、もうないの。"こんなこと"なんかじゃないの。大変なんかじゃないの。
どうかそれを、わかってほしい。
「………………秀作くん、の、ことが、」
"好きだから"と、最後の重要な部分は恥ずかしさのあまり掠れるような声量になってしまった。
ちゃんと聞こえただろうか。いっそ、聞こえていなくてもいいように思えた。
だけどどうやら、ばっちりと聞こえていたようで。彼はぱちくりと目を見開き、じわじわとその頬を赤く染めていく。
聞こえていたのなら、仕方がない。さらに覚悟を決めて、彼が何か言う前に、私はさらにたたみかける。
「だから、それならただ、嬉しくて幸せなだけだから、好きな人とじゃないと、意味がないから、だからその、っ、」
途端、強く抱きしめられた。かと思えば、柔らかい何かに口を塞がれる。それが何かなんて、考えるのは野暮だろう。
触れるだけ、どころか押し付けるような強い口づけ。けれど無理やり舌が押し入ってくることはない。
何度か角度を変えて、そっと唇は離れていく。目の前には、秀作くんの顔。なぜだか泣き出しそうな、だけどとても嬉しそうな、秀作くんの、表情。
「意味なら、あるよ。僕も、志麻ちゃんも、幸せっていう、これ以上ない、素敵な意味が」
どうしてそんな素敵な考え方ができるのだろう。
そう問いかける前に、秀作くんはがしりと私の両肩を掴んで、少し互いの距離をとった。
泣き出しそうな表情はそのままに、真剣な色を強く宿して、真っ直ぐ私を見つめている。
「志麻ちゃん。だいすき。志麻ちゃんも僕のことが好きなら、くのいちじゃなくて僕の恋人になって。ううん、もっと先、僕のお嫁さんになって」
そこでいったん言葉が途切れたかと思うと、また秀作くんは私に口付けた。
おかげで答えることができない。だけど私のなかに、まだ答えはない。どう答えればいいのか、わからない。
今の言葉、嬉しい。私は秀作くんが好きなのだから、嬉しいに決まっている。
だけど答えに悩んでしまうのは、どうしてだろう。ああやっぱり、私には恋というものがわからない。
「だめ?いや?僕のこと好きなら、だめ、じゃ、ないよね?」
「わ、わからないの。こういうの、初めてだから」
「僕だって初めてだよ。でも、これだけは言える。僕は志麻ちゃんがだいすきだよ、志麻ちゃんも僕が好きだって言ってくれるなら、絶対に離したくない」
「………………」
「志麻ちゃんは何がわからないの?教えて、一緒に考えようよ」
言葉を重ねるにつれて、秀作くんの泣き出しそうな表情は影をひそめ、きゅっと眉を吊り上げた真面目なものになっていく。
ただでさえ、秀作くんの言葉はまっすぐで、正直なのに。そんな顔までされたら、心の奥まで届いて、私を痺れさせるには充分だ。
そっと、肩に置かれた秀作くんの手に、自分の手を重ねる。少しだけ、彼の表情が和らいだ気がした。
「この一年は、ずっとくのいちになることだけを考えていたから…………」
「どうしてもくのいちになりたいの?それが志麻ちゃんの本当の夢?」
「だって…………両親が、いなくなってしまったから。手に職が、あったほうがいいと思って」
「僕がいるけど、それではだめ?」
首を振った。瞬時に、振ってしまった。
だめなわけがない。私は秀作くんが好きなのだから、だめなわけがないの。
「秀作くんは、私でいいの?」
「なんで?僕の気持ち、信じられない?」
「そうじゃなくて…………私、その、初めて、他の男のひとだったし」
「はは…………そんなの、いまさらだよ。そりゃあ、知ったときはすごく悲しかったけど。それでも志麻ちゃんのこと、ずっと好きだったよ」
"志麻ちゃんだって、必死だったんでしょ"。そうやって続けられた労りの言葉は、あまりにも優しい声色だった。
思わず、唇をかみしめる。"だめだよ、痛くなっちゃう"とさらに慈しむように秀作くんは囁いた。
「………………お」
「お?」
「………………置いていかない?私の、こと」
「…………」
「両親こと、恨んでるわけじゃないの。秀作くんのおかげで、ずいぶんと受け入れられるようになった。だけど、でもね」
「うん。置いてかないよ」
「………………」
「志麻ちゃんのご両親がどうこうじゃなくてね。志麻ちゃんのご両親だって、きっとたくさん考えての選択だろうから」
「…………うん」
「ただ僕は、志麻ちゃんを置いていかないよ。ずっと一緒にいる。たとえ志麻ちゃんの方が逃げちゃっても、どこまでも追いかけるよ」
そんなの、願ったりかなったりだ。有り得ないけれど、万が一にでも私が逃げてしまったら、お得意の追跡で迎えに来てほしい。
私を置いていかないで。私をおいて、行かないで。私をひとりにしないで。どうか迎えに来て。私のところに、帰ってきて。
きっともう、両親とは無理だけれど。それはもう、大丈夫なの。悲しいけれど、秀作くんのおかげで、ずいぶんと平気になったわ。
これから先、私と一緒に在るひとが、誰でもないあなただったら。そんなに幸せなことはない。
肩に置かれている、秀作くんの手。それに重ねていた自分の手に力を入れて、彼の肌に強く触れた。
やわらかくて、だけど私より硬くて、けれどとても温かい肌だった。それを受けて、彼は心底嬉しそうに笑った。
「志麻ちゃん、僕のお嫁さんになってください。幸せにするよ。幸せにできるよう、絶対努力するよ」
ああ、どうしてこのひとは、こうやって私のほしい言葉をいとも簡単にくれるのだろう。
幸せになってほしいと、両親からの手紙には書いていた。
いいところにお嫁に行って、幸せになってほしいと。それが両親からの、最後のお願いだった。
その機会が目の前にある。どうしてそれを叶える機会を、こうも簡単にこのひとは与えてくれるのだろう。
両親と帰る場所をなくしたあの日、幸せになんて二度となれないと思った。
それなのに私は今、とても幸せだ。きっとこれから先、この人とともにある限り、ずっと。
大きくひとつ、秀作くんに向けて首を縦に振った。
ぱあと、秀作くんの表情が明るくなる。こんなことで、幸せそうに笑ってくれる彼が、どうしようもなくとても愛おしかった。
「好きよ。私も、だいすき」
また口づけを贈られる寸前、どうにか滑り込んだ私のその言葉。
それに応えてくれるように、あまりにも熱烈な口付けを受けながら、私はあの原っぱ以来初めての涙を流した。
――――――ねえ、父さん母さん。
どうして私を置いていったの。私も一緒に連れて行ってほしかった。
やっぱり心のどこかでそう思ってしまうの。たぶん一生、この気持ちが完全に消えることはない。
だけど今は、こうも思うの。
最後まで学園に通わせてくれてありがとう。
そのおかげで、秀作くんと再会できたから。
少し遠回りしてしまったけど、こうやって彼を好きになることができたから。
"どうして僕を好きになったの?"なんて心底不思議そうに聞いてくるんだから、おかしいでしょう。
"一生懸命慰めてくれたからよ"、"両親に愛されていたと信じさせてくれたからよ"。
そうやってすなおに答えても、"そんなことで?"とやっぱり不思議そうに首をかしげるんだから、本当に優しい人でしょう?
こんな優しい人、愛しい人に、もう一度会わせてくれてありがとう。
きっと二人が願ってくれたとおり、この人と一緒なら私は幸せになれると思うの。
ふたりのおかげよ。最後にこの幸せを置いていってくれて、本当にありがとう。