小松田さん、もとい秀作くんとの情交は突発的とも思えたその一回だけでは終わらなかった。
まさになし崩しともいえる、なあなあな身体だけの関係を、私は彼と続けてしまっていた。
私は相部屋だし、まさか教職員長屋にある秀作くんの部屋で行うわけにもいかない。
忍術学園の休みの日。互いの予定が合えば少し遠い街まで赴いて、一緒に食事をして、出店を見るのもほどほどに宿に入るのだ。
なぜそこまでして、私は秀作くんと会うのか。秀作くんと、身体を重ねるのか。
恋人でもないのに、好きなひとでもないのに。"だけどそれだから僕で意味があるんでしょ?"と、髪をかき上げながら秀作くんは笑う。
「くのいちは大変だね。好きでもないひとと、こんなことしなきゃいけないんだ」
何度目かの情事の際かは忘れたけれど、すべてが終わったあとにのんびりまどろみながら、秀作くんはひとりごとのように呟いた。
まるで他人事のようだと思った。妙に達観しているとも思った。
気怠い身体と頭では推敲する余裕なんてなくて、そのままそっくり思ってしまった言葉が滑り出る。
きょとん、と大きな目をさらに大きくして、それをぱちぱちと瞬かせて、首をかしげる秀作くん。
案外長くて、そして少し癖のある髪が揺れた。それによってふわりと強くなる、彼のかおり。あの街の、かおり。
「ひとごと?たっかんしてる?どういう意味?」
「自分で言うのもなんだけど…………秀作くんは私のこと、好きなんでしょう?」
「うん。むかしから、ずっと好きだよ」
「それなのに、大変だねとか、好きでもないひとと、とか。なんだか、他人事だし、達観しているなあって思ったの」
"ふたりきりでいる間は、昔のように呼んで、昔のように話してほしい"。そうやって、この関係が始まった頃に頼まれた。
学園の中ではないのなら大丈夫かと思い頷けば、それはもう秀作くんは嬉しそうに笑った。
そんなことで、喜んでくれるくらい。彼は私のことが好きなのだ。今だって事実、私が好きだとその唇はつむいだばかり。
だけどその先を、彼は求めない。思い返せば、昔からそうだった。
秀作くんは私が好きだと言うけれど、その思いを口にはするけれど、それだけで満足なのかいつもにこにこするだけ。
「だって志麻ちゃんは、僕のこと好きではないでしょ。男としてね。むかしから、ずっと」
「………………それは、まあ」
「それなのに、どうすればいいの。僕のこと好きになってって言えばいいの?それで好きになってもらえるなら、苦労しないよ」
ごもっともだ。"自分のことを好きになってくれ"、そう伝えて、"はいわかりました"と上手くいくのなら、この世に失恋なんて言葉は存在しない。
なので本当に、ごもっともなのだけど。彼の少し我が侭な部分を知っている身としては、妙に物分かりがいいものだと思ってしまう。
あれは幾つのときだったかしら。少なくとも、私も彼も本当に小さかったとき。
飴屋の前で地面に転がって駄々を捏ねていた秀作くんを見かけたことがある。一度だけでなく、何度も。
だけど、すぐに思いなおす。もう彼は、あの頃の泣きわめいていたこどもではないのだ。
駄々を捏ねて、地団太を踏んでも、どうにもならないことだってあると、知っているのだろう。彼も、そして私も。
「ああ、だけどどうなんだろう。自分に自信があるひとなら、好きになってくれって言えるのかなあ」
「さあ…………」
「僕はさあ、むかしからドジで、抜けてて、へっぽこ次男坊だったからさ。そんなやつのこと、好きになってほしいなんて言えなかったよ」
「そうだったの?」
「うん、そうだったんだあ。志麻ちゃんのこと、好きなだけで満足だったし」
「……………………そのわりには」
こうやって、手を出すのね。彼に届くかどうか微妙な声量で続きを言えば、ばっちりと彼には聞こえていたようで困ったように秀作くんは笑った。
そっと案外大きな手が顔に向かって伸びてくる。振り払うことも、防御も何もせずにいると、その手は私の髪を取り、指先で梳いた。
「むかしは本当に、それだけで満足だったんだけどね。僕も体だけは立派になっちゃったから、好きな子の隙があれば、押し入っちゃうよ」
秀作くんの身体が立派な男のひとのものであることは、言われなくとも充分に分かっている。
持て余すからだの熱情を、好きな相手にぶつけたくなる男の人の心理も、なんとなくわかっているつもりだ。
そうなると秀作くんが私をこうやって抱くことは、彼の言うとおり私に隙があったのだから、むしろ健全なことなのではとすら思えてきた。
わかっている。私が今、からだが疲れているから少し考えが浅慮なことも。
わかっている。秀作くんよりも、本当に問題なのは、おかしいのは、私の方だということも。
だって、そうでしょう。秀作くんは、私が好き。だから抱きたい、抱いている。それはまだ、わからなくもない。
だけど、私はなに?秀作くんのことを、勿論嫌ってはいないけれど男の人として特別好いているわけでもない。なのにこうやって抱かれている。
くのいちになるから?くのいちになるため?そのために、あの実習のように、好きでもない相手に抱かれて、覚悟を決めているの?
随分とへたくそな言い訳ね、と自分を内心なじる。最初の頃はそうやって自分を騙していたけれど、限度というものがある。
結局私は、寂しいのだ。どうしようもなく寂しいのだ。どうしようもなくあの街に、かつての日々に、焦がれている。
だからあの街の気配を漂わせる、あの街のかおりをまとうこのひとを、秀作くんを、拒み切れない。
秀作くんは今では忍術学園に住み込みで働いているけれど、それでも十六年ずっとあの街で暮らしていたのだ。染み付いたもの、消しきれないというものは、どうしてもある。
そのかけらに私は縋りついているのだ。縋りついてどうにか自分の寂しさを慰めている。
それはおそろしく身勝手で、あまりにもむなしいものだった。それくらいは、私にだってわかっていた。
そんな秀作くんとの不埒な関係をずるずると続けながら、六年生の秋を迎えた。
秋といえば、秋休みがある。秋休みといえばちょうど一年前、私が家族も帰るべき場所も、すべてをなくした日だ。
秋休みに入った初日。私はどうしてもいてもたってもいられなくて、あれから初めて生まれ故郷の街を訪れていた。
かつての私の実家は既に買い取られていて、小さな反物屋になっていた。私の目には、うまく繁盛しているように映った。お客も、主人も、とても楽しそう。
少し離れた場所から、何をするわけでもなくただその店、かつての私の家を、じっと見つめる。
はたから見れば不審者に見えるかもしれない。だけど立ち去ることも、ましてやその店に立ち寄ることも、できなかった。
どれくらいそうしていたのかわからない。ふと、背後から腕を掴まれた。
振り向くと、そこには秀作くん。ここは学園ではないけれど、この街は彼の実家があるのだから不思議ではない。
眉を下げに下げて、とても心配そうな顔をしていた。何かあったのだろうか。
「……………………志麻ちゃん。今、ひま?」
随分とへたくそな笑顔を作りながら、秀作くんはそう問いかけてきた。
私はそれに頷く。この街にやってきたのは、ひとめかつての実家を見たかったからだ。その目的は既に果たしている。
"よかった"と、さらにへたくそに秀作くんは笑った。"ついてきて"とそのまま私の腕を引っ張り、先を歩き出す。
抵抗する理由もなかったので大人しくついていくと、彼の足は街を出て、さらに少し歩くと広がる原っぱにたどり着いた。
ここは街の子供たちのかっこうの遊び場だ。私や秀作くんもよく足繁くかよった。だけど今はひとっこひとりいない。
ふたりきりの原っぱ。秀作くんが座り込んだので、私も続く。続くしかなかった、だって私の腕は、未だに彼に掴まれているからだ。
並んで座って、しばらく経っても秀作くんは無言。さらに私の腕を離す気配もない。だから私が先に口を開いた。
「…………いつまで掴んでいるの?別に、逃げないわ」
「えっ。あ、ご、ごめんね。痛かった?」
「痛くはないわ。大丈夫」
「そっか、よかった。………………いや、よくないんだ」
「なにが?」
「さっき………………志麻ちゃんまで、どこか消えちゃいそうで、すごく怖かった」
私まで。それは、私の両親のことを言っているのだろう。私の両親は、それこそ急に、風のように消えてしまった。
秀作くんにそのいきさつなどは話していないけれど、かつての簪屋が今は反物屋になっているのだ。
それにきっと、両親が消えた当初は多少なりとも街の中で話題になっただろう。
だから彼が、何も一切、知らないわけがない。両親の後を追うと思われたのだろうか。そんなこと、しないのに。
「そんなことしないわ。学費…………最後まで、両親が払ってくれているから。それを無下になんてしない」
「あ、そうなんだ?じゃあ志麻ちゃん、アルバイトとかはしてないの?」
「そうね。だから休日は勉強に集中できて、どうにかみんなに追いつけたわ」
「こういう長いお休みのときはどこに………………って、聞いても、いいのかな?」
「父方の親戚が、わりと近くに住んでいるから。そこにお世話になってるわ」
「そうなんだ。よかったね」
親戚は両親の失踪のことを知らなかったようで、当初はとても驚いていたけれど、長期休暇中あてのない私を快く引き受けてくれた。
だから、去年の冬休みと春休み。そして今年の夏休み、この秋休みも、いやな顔ひとつせず私を泊めてくれている。
よかった。そう、よかったの。私は、いいほうなの。
誰かと不幸比べをするのはよくないことだとわかっている。だけど私は、まだ恵まれている方なの。
学費は最後まで両親が払ってくれた。長期休暇の際にお世話になる場所もある。
両親も、家も、なくなってしまったけれど。そんなのこの時勢、珍しいことではない。
「そうね。私はまだ、いいほうだわ。もっと大変な、つらい思いをしている子は、学園にもたくさんいるもの。それに比べれば、私なんて」
学費を払うために、休日返上でアルバイトをすることもない。
長期休暇の際の宿代を払うために、やはり休日返上でアルバイトをすることもない。
そういえば、同級生の孤児の子たちはこの秋口になると、よく嘆いている。
この時期から洗濯代行のアルバイトは儲けがいいけれど、水が冷たくて、手荒れがひどいのだと。
ふと、自分の両手を開いてすみずみまで眺めてみる。手荒れのひとつもない、きっと孤児にしては、恵まれた手だった。
「でもさっきの志麻ちゃんは、すごく悲しそうだったよ」
そんな私の両手を、誰かが掴んだ。誰かなんて、考えるまでもなかった。隣に座る、秀作くんだ。
彼の手は案外大きくて、片手でどうにか私の両手を掴んでいる。
隣の彼を見上げる。秀作くんのほうが、よほど悲しそうな顔をしていた。
「でも、他の孤児の子たちのことを考えてみて。私はいいほうよ。秀作くんも、わかるでしょう?」
「どうしてそこで比べちゃうの?志麻ちゃんの身に、悲しいことが起きたのは本当のことなのに」
「……………………」
「他の子と比べて、いいほうだ、なんて。思うことないよ」
「………………だって」
「志麻ちゃんが悲しむのは、いけないことなの?」
どうして秀作くんの方が、そんな悲しい顔をするのだろう。
どうして秀作くんの方が、そんな悲しいことを言うのだろう。
だって。身近に孤児の子たちがいるから、わかるのよ。いやでもわかってしまうのよ。
比べるのはよくないってわかってるけれど、それでもどうしても、私は"いいほう"だって。
だったらいいほうの私が悲しむのは、きっといけないことだわ。
それに、もしも。もしも心から悲しんで、喚いて泣いて、駄々を捏ねて地団太を踏んで、そうすることでどうにかなるのなら。
それで両親が帰ってきてくれるのなら、私はいくらでも悲しむけれど、そんな奇跡は起きないの。
だったらそれは意味のないことだわ。ただただ悲しいだけで、寂しいだけだわ。
そこで、私は今更気付く。そういえば私は、あの秋休みに両親と家をなくしたときも、あの実習の夜のときだって、ただの一度も、涙を流さなかったと。
「さっき、本当に怖かった。志麻ちゃん、消えちゃうんじゃないかって」
「消えないわ」
「それなのに、…………僕が聞くからだけど、なんてことないように色々答えてくれるし」
「だって、なんてことないもの」
「そんなわけないでしょ。どうして?そうやってずっと我慢してるの?」
「我慢、なんて」
「だとしたらよくないよ。悲しいときはちゃんと悲しまなきゃ」
「悲しくない」
「ね。志麻ちゃん。いい子だから」
空いた片方の手で、秀作くんは私の頬を優しく撫でた。
まるで涙をぬぐうような手つきだったけれど、泣き出しそうなのはやっぱり相変わらず秀作くんの方。
だからいよいよ、私も彼に釣られてしまいそう。
秀作くんの手つきが、声が、表情が、優しすぎてつらい。
"いい子"だなんて、久しぶりにかけられた言葉は、あまりにも私に響いてしまう。
――――――ねえ、父さん母さん。
私、泣いてないよ。一度だって泣いてないよ。
しっかりしてるねっていつものように褒めて。
志麻はいいこだねって、いつものように頭をなでて。
ねえ、置いていかないで。ねえ、ふたりだけでいかないで。
ねえ、私も連れてってよ。
父さんと、母さんと一緒なら、野宿でも食べ物に困っても、それでもよかったのに。
「わ………………私、」
「うん」
「私も、連れてって。置いてかないで。二人がいれば、それでよかったのに」
「うん」
「学園じゃなくてもよかったのに。二人がいれば、野宿でもなんでも、よかったのに」
「うん」
「幸せな結婚なんてできない。幸せになんてなれない。二人がいないなら、なんもできない。幸せになんて無理だよ、二人の言いつけ、初めて守れないよ、どうしよう」
「うん」
「どうして私を置いていったの、どうして連れて行ってくれなかったの、なんで」
「うん」
「ふた、ふたりは本当は………………私のこと、嫌いだったの、かなあ」
十五の女が、原っぱで号泣している。はたから見ればあまりにも異様な光景だろう。
だけど一度言葉を、涙をこぼすと、止まらないのだからどうしようもない。
自分で口にして、その言葉でさらに自分を傷付けているのだから本当にどうしようもない悪循環だ。
しっかりしているねと、両親に褒められながら育った。
だけどそれは裏を返せば、私は口うるさくて、やかましい子供だったのかもしれない。
それに、私が本当にしっかりしていたのなら。
家の窮地に、もっとちゃんと早く気付けていたはずだ。
そもそも窮地になんて、ならなかったはずだ。
私がもっとしっかりしていれば。子供だったから、なんてきっと言い訳にしかならない。私のせいだ。きっと。
「それはないよ、志麻ちゃん」
ずっと相槌を打つだけだった秀作くんが、途端私の言葉を否定した。
さっきまでの泣きそうな顔とはうってかわって、とても真剣な表情で。
私の涙を拭ってくれていた手も使って、秀作くんは両手で私の両手を強く握りしめる。
おかげですっぽりと彼の掌中におさまったそれは、ぐいと引っ張られ彼の胸元に添えられた。
「それだけは絶対にないよ」
「ど、どうして秀作くんに、わかるの」
「君が好きだからだよ」
「い、意味がわからない」
「僕はね、君のお父さんが作った簪をつけている志麻ちゃんを見かけて、好きになったんだ」
「………………」
「可愛いね、似合ってるって両親に褒められて、本当に嬉しそうに笑ってる君を見て、大好きになったんだ」
「……………………」
「あのときから、君は僕のお姫様なんだ。僕のお姫様は、とても愛されていたよ。じゃないとあんなに、可愛く笑わない」
歯の浮くような台詞なのに、あまりにも秀作くんの表情、声色が真剣だから。
その言葉がすっと胸に入ってくる。その言葉が真実なのだと錯覚してしまいそうになる。
いや、私はきっと信じたいのだ。弱い人間だから。寂しい人間だから。
せめて、私は両親に愛されていたのだと。
せめて、愛されていたからこそ両親は私を置いていったのだと。
そう信じたいのだ。そうじゃないと、あまりにも悲しくて、私はきっともう二度と立ち直れない。
「も、もっと」
「うん」
「もっと言って。愛されてたって言って。私、両親に、愛されてたって」
「うん、いいよ。志麻ちゃんが泣き止むまで、ずっと言ってあげる」
そして悲しいくらい優しく、秀作くんは私を抱きしめた。
耳元で囁かれる言葉も、あまりにも悲しく、優しく、そして愛しい。
私からもしがみつくように、秀作くんを抱き返した。さらに涙の気配がする。しばらくとまらないだろう。
だけど秀作くんは、本当に最後まで、私が泣き止むまで付き合ってくれるのだろうと思えた。
そういうどうしようもなく優しい人であることくらい、私でも知っていた。
それからやはりしばらく泣き続けた私を根気よく慰めてくれた秀作くんは、ようやく私の涙が止まると安心したように笑った。
不意に、目元に口づけを落とされる。腫れてしまっただろうそこに触れられるのは少し痛かったけれど、嫌な気持ちにはならなかった。
それどころか、私の胸にともるのはあたたかな何か。今まで感じたことのない、やわらかな感情。
現金なものだ。ほんとうに、現金。さっきまでわんわん泣いていたのに、泣き止んだら、これ?
目の前の秀作くん。私を目いっぱい慰めてくれたこの人は、私を昔から好いてくれている。
その事実が今は、嬉しく思えた。とても、愛しく思えた。
私はきっとそう遠くないうちに、このひとを愛してしまうのだろうと、どこか他人事のように思ってしまったのだ。