十四歳。五年生の秋、家族と帰るべき場所を失った。
無くした今だからこそ思う。どうしてそんな尊いものたちが、いつもそこにあって当然だと思っていたのか。
同級生には孤児の子たちもいるのに、自分だけは違う、そうはならないと、どこかで驕っていたのだろうか。そうだとしたら私は随分と傲慢で、卑しい人間だ。

実家は両親が営む小さな簪屋だった。
小さくとも家族三人食べていくには充分で、それどころか私を行儀見習いとして学校に通わせてくれたほどだ。
両親は、優しいひとたちだった。それ故か、あまり儲けを考えないひとたちでもあった。
簪を作れることが楽しいのだと、父は商人に自身の作品が安く買い叩かれても笑っていた。
うちの簪を手に取って笑ってくれるのならそれでいいと、母はお金の足りないお客にも値段をまけて売っていた。
我が両親ながら、我が実家ながら、商売として大丈夫なのだろうかと心配になることが、実のところたびたびあった。
だけど、大丈夫だろうとも思っていた。両親はいつも笑顔で、朗らかで、学校が長期休暇になるたびに帰ってくる私を、温かく迎え入れてくれたから。
両親の笑顔は、こどもの私をいとも簡単に安心させた。"大丈夫だ"と、根拠も何もない、だけど絶対的な自信をもって。
長期休暇が終わり学校へ向かう私を、いつも二人は並んで見送ってくれた。
"元気でね"、"また次の休みにね"、その言葉も、私は信じていた。その言葉が絶対だと、次もあるのだと、私は信じて疑わなかった。その"次"が、ないとも知らないで。

否、正しくは、次の休みはあった。私が行儀見習いとして通う学校、忍術学園は実家が農業をしている生徒が多いので設けられている秋休み。
七日ほど与えられるその休み。私が五年生の秋にも、生徒たちに秋休みは例年通り与えられ、私は実家に帰っていた。
だけど、そこに実家はなかった。建物自体はある。周りのお店と比べるとこじんまりとした、小さな家屋。
しかしそこに父の渾身の作品である簪は並べられていなかった。店じまいしているわけではない。ただただ、何もないのだ。がらんと、本当に何もない。
店の奥、住居となっているそこを覗いてもまったく同じだった。何もない。それどころか父と母の姿もない。
どうしたものか、いったい何なのか、何が起きているのか。からっぽになってしまった実家の前で立ちすくむしかない私に、隣の紅粉屋の主人が声をかけてくる。
両親から手紙を預かっていると、それを手渡してくれた主人はやけに気まずそうな様子だったけれど、私がそれを気に掛ける余裕はなかった。
両親からの手紙の内容は要約するとこうだ。

借金が膨れ上がり、どうしようもなくなった。
簪と家財をいっさい売ることで、どうにか勘弁してもらった。
今までどおりの生活はできなくなった。迷惑をかけて申し訳ない。
お前に野宿をさせたり、食べるものに困ったり、不自由な生活をさせたくはない。
どうにか工面して、卒業までの学費は先日学園に支払っている。
だからお前はこれからも学園で生活して、そしてどうかいいところにお嫁に行って、幸せになってほしい。

信じられなかった。にわかに信じられるはずがなかった。
だけど目の前に広がる、からっぽのかつての我が家。私の家。私たち家族の簪屋は、もうない。
そして子供ながらに感じていた、両親の優しさ故の商売下手。歳を重ねるごとにいやでもわかってしまっていた、両親の美点であり欠点とも呼べるそれ。
そのふたつが相まって、私は信じざるを得なかった。この一瞬にして、家族と、帰るべき場所を失ったという、この現実を。

どうして大丈夫だなんて、思っていたんだろう。何も、なにも大丈夫なんかじゃ、なかったのに。
父も、母も、おっとりとのんびりしていた人たちだったから。だから一人娘の私が、代わりにしっかりするべきだったのに。
父も、母も、"誰に似たのか志麻はしっかりものだね"なんて褒めてくれたのだから、私がもっともっと、しっかりするべきだったのだ。
それなのに、それなのに。私は両親の笑顔を信じて、その裏にあったであろう苦労も知らないで、ただ根拠もなく大丈夫だと信じて。
結果、すべてなくしてしまった。だというのに私は妙に冷静で、両親からの最後の贈り物である手紙を、丁寧に折りたたんで懐にしまう。
そして、来た道を戻った。学園に戻った。幸い、先生方がまだいらっしゃったので事情を説明すると、秋休みは短いからと今回だけ学園に滞在する許可をいただけた。

そんな経緯で家族と帰るべき場所をなくし、所謂孤児と呼ばれる立場となった私は、秋休みが終わってからすぐ、くのいちを目指すことにした。
私の通う学校は忍術学園との名の通り、基本は忍者を育てる学校である。私の通うくのいち教室には、行儀見習いとこれまた名の通りくのいちを目指すクラスがあった。
入学から五年生の秋休みまで、私は行儀見習いクラスに在籍していたけれど、これまでとはまるで事情が変わってしまっている。
両親は手紙に"いいところにお嫁に行って幸せになってほしい"と書いていた。私だって、将来そんな未来が訪れるのだろうと、またもや根拠もなく信じていた。
しかし両親の件で、根拠もない自信は無駄なものだと思い知った。
行儀見習いを続けたところでいいところにお嫁に行けるとは限らない、幸せになれるとは限らない、そもそもお嫁に行けるかどうかだってわからないと、ようやく私は目を覚ましたのだ。
その結果、くのいちを目指す方がよほど現実的だと考えた。誰かにお嫁にもらわれようと受動的になるよりも、自ら学び、手に職をつけるほうがよほどいいと。

くのいち志望の生徒は、四年生から本格的にその学びをはじめている。
そうなると私は一年半ほど遅れているわけだ。だから暇があれば自習をしてどうにか差を縮めようと躍起になった。
そしてさらには、くのいち一番の武器。色の実習が、秋休みが終わったちょうど一月後にあったものだから。
私はそれに参加希望を出していた。基本的には最上級生、六年生のくのいち志望の生徒が受ける実習だった。
けれども希望があれば五年生でも四年生でも先だって受けられるというので、私は覚悟を決める意味も込めて、その実習を受けることに決めたのだ。
最上級生が受けるだけあって、色の実習のなかでも本格的な――――閨房術、男女のまじわり。
五年生の秋、親と家を失い、くのいち志望となって一月足らずのとある夜。一学年上の忍たまの先輩に、私は抱かれたのだ。
緊張しすぎていたせいか、あまりその夜のことは覚えていない。とにかく、痛くて、怖くて、そして。
――――――ああ、本当に私は全てを失ったのだと、妙に冷静に思い知ったことだけを、覚えている。


そんな夜から半年後。必死の努力が身を結び、どうにかくのいち志望の子たちに追いついた、六年生に進級した春。
所用があり訪れていた教職員長屋からの帰り道、私は思いがけぬ人と再会した。まともに顔を合わせ、言葉を交わすのは少なくとも一年以上ぶりのことだった。

「志麻ちゃん?志麻ちゃんだよね?おーい、志麻ちゃーん!」

その声は、記憶にあるものより幾分か低くなっていたのですぐには気付けなかった。
名を呼ばれていなければ、私は知らない人の声だと振り向くことはしなかっただろう。
だけどその人はご丁寧に三回も私の名前を呼んだので、そうなると振り向く選択肢しかない。
そこでようやく、私はその声の主が誰であるのか気付いた。やはり記憶にあるものより幾分か大人びたように思えるが、それは見知った人だったからだ。
小松田秀作くん。かつて私の家、私たちの簪屋があった街、そこに店を構える老舗の扇屋の次男坊だ。

「秀作くん…………?」
「志麻ちゃんが行儀見習いの学校に通ってることは聞いてたけど、忍術学園だったんだ。すごい偶然~」
「どうして秀作くんがここに?あ…………編入?」
「ええ、違うよ。忍者としては就職が決まらなかったんだけど、ここに事務員として雇ってもらったんだ」
「事務員………………そうだったの」

"小松田屋の秀作くん、町の忍術教室に通ってるんだって"。
五年生の夏休み。両親と過ごした最後の日々。そのときのひとかけらを、ふと私は思い出す。
私はお目にかかったことがないけれど、"町の忍術教室"とやらに通っていた秀作くんが、この忍術学園にいる。
私の考えうる限り、一番可能性が高そうなもの。つまり町の忍術教室をやめて、改めて忍術学園に入学したのかと思ったのだけど、どうやら違ったようで。
それどころか"事務員"という、私の考えの及ばない明後日の方向の答えが返ってきてしまったので、私は相槌をうつだけで精いっぱいだ。

そもそも、私と秀作くんは同じ街の出身とはいえ特別仲が良いわけではない。
まず家が近くではなかったこと。そして歳がひとつ離れていること。さらには男の子と女の子であったこと。
街の子供が集まった際に一緒に遊んだことはあるけれど、二人きりで遊んだことなんて確か一度かそれくらいだ。
私が十歳になって忍術学園に入学してからは、普段街にいないこともありすっかり疎遠になったように思う。

「志麻ちゃんがいるなんて嬉しいな。職場に好きな子がいるなんて、そんなに嬉しいことはないよ」

………………疎遠になったように、思っていたのだけど。どうやらそう思っていたのは、私だけのようだ。
今の言葉どおり、秀作くんは私が好き、だそうだ。
幼いころからよくそう告げられていたし、街の子供たちでお嫁さんごっこやおままごとをするとなったら彼は私の相手役を死守していた。
それに対して私は、特に何も応えることはなかった。せいぜい、ありがとう、くらいしか。
だって秀作くんは、何も求めていなかったからだ。"好きだよ"と告げて、にこにこ幸せそうに笑うだけだったからだ。
今も、ほら。私の答えなんて聞かずに"そういえばくのいち教室にはまだ行ったことないなあ~"なんて、別の話題に移行している。

「くのいち教室のことは、基本的に事務員のおばちゃんがやってくれますから。吉野先生ですら、あまり入ってこないんですよ」
「ええっ、そうなの!?…………ところで、吉野先生って誰?」
「まだ会っていませんか?小松田さんが事務員になるなら、上司になる先生だと思いますけど」
「ああ、あの騙し絵みたいな顔の先生?そっか、吉野先生って名前だったっけ」
「騙し絵…………」
「それより、なんで敬語なの?小松田さんってなに?いつもみたいに呼んでよ」
「ここは街じゃないですから。事務員といち生徒として接した方がいいかと思って」
「そうなの?そういう決まりがあるの?」
「決まりというか、一般的に考えてというか…………」
「うーん。相変わらずしっかりしてるなあ、志麻ちゃんは」

にこにこと心底嬉しそうに、秀作くんもとい小松田さんは私を見つめる。
そのあまりにも好意的な態度に気圧されて、つい視線をそらしてしまった。
……それだけではない。この人からは、あの街の香りがする。あの街特有の、紅や白粉、香の混ざった独特なものが、わずかに、だけど確かに。
それを受けて、こうやって胸が痛むということは。私はまだ、完全に吹っ切れてはいないのだろう。
くのいちを目指しているというのに、諦めが悪い。往生際が悪い。まだ未練があるのだろうか。あの街に、あの日々に。

「あ。そういえば僕、その吉野先生に呼ばれてたんだった」
「それじゃあ、早く行かないと」
「うん、そうだねえ。また会えるよね?同じ学園にいるんだから」
「たぶん、今までよりは」
「やったあ!行儀見習いも六年生になると忙しいのかな?体には気を付けてね」

そう言いながらぶんぶんと手を振って、小松田さんは去って行ってしまう。
おかげで訂正する暇もなかった。私はもう、行儀見習いではないと。
確かに私は元々行儀見習いとして忍術学園に入った。両親だって、かつて街の人たちにそのように話したのだろう。
だから小松田さんは私を行儀見習いだと思っているし、長期休暇の際街に戻り、偶然会うことがあれば"学校はどう?"、"行儀見習いって何するの?"と聞かれたこともある。
それは間違いではない。間違いではなかった。だけどもう、今となっては間違いだ。私は今、くのいちクラスに在籍しているのだから。
今度機会があったら訂正しておこうと心のうちでひとり呟き、私もくのいち教室に向かって歩き出す。
小松田さんがいなくなったことにより、もうあの街のにおいはしなかった。


そうは言っても事務員といちくのたまが長話する機会などそうそうあるはずもなく、私は小松田さんの誤解を訂正できずにいた。
思いがけない形でその機会が訪れたのは、本当に突然のことだった。
同室相手が所用で出かけている、とある日の授業終わり。ひとり部屋で本をぱらぱら流し読みしていたところ、彼は突然現れた。
彼、とは勿論小松田さんのことだ。天井裏からなどではなく、堂々とふすまから入ってきたのは、まあ彼が事務員だからこそ許される行動だろう。
これが忍たまだったら血祭ものである。くのいち教室は基本的に男子禁制だし、入ってくるとしたら許可札をもらってくるか、暗黙の了解で天井裏から目当ての部屋へこっそりと、だ。

「志麻ちゃん」

小松田さんは、事務員だ。事務員さんがわざわざ部屋までやってきた、ということは何か事務的な用事があるのかと考えるのは当然だろう。
たとえば、お届け物とか。だけど彼の両手はからっぽだ。何も持っていない。
ぎゅうと硬く握りしめられた両手。そして、切羽詰まったように私の名前を呼ぶ震えた声。
そのどちらもが少し気になったけれど、それ以上に何故彼が部屋にやってきたのか、その理由の方が気になった。

「どうかしましたか」
「志麻ちゃん、なんで去年、閨房術の実習受けてるの?」
「………………え」
「知ってるよ、それって六年生のくのいち志望の子が受ける実習でしょ。なんで志麻ちゃんが、受けてるの?」
「なんで小松田さんが、知ってるんですか」

質問を質問で返すのはどうかと思うが、何を考えるまでもなく口から出てきてしまったのだからしょうがない。
去年、一年早く閨房術の実習を受けたことは、今はここにいない同室の子にしか伝えていない。
知る人が限られているはずのその情報を、何故彼が持っているのか。
私のその疑問に、彼は勿体ぶることなく、あますことなく答えてくれる。

吉野先生から事務室の書類整理を頼まれたので行っていたところ、色々と事故が起きてしまって部屋中が書類まみれになってしまった。
その書類の山のなかに、去年の閨房術の実習の参加者名簿があった、そこに私の名前を見つけた、とのことだ。
事故が起きただとか、書類まみれだとか、そのことについて驚くことはなかった。
小松田さんが事務員としてやってきて数か月。彼のその腕前は、悪い意味で学園中のうわさだ。人呼んで"へっぽこ事務員"だとか。
だからそこには驚かないのだけれど、彼は私の質問に答えてくれたのだけれど、まだ私は、彼からの質問に答えることができなかった。
"どうして閨房術の実習を受けてるの?"。そんなの、一言じゃ説明できない。私にも色々あったのだ。
だけど、"自棄だった"、その一言で済みそうな気もして、私は当時の自分の浅はかさを今更思い知る。

「相手役の子が、好きな子だったの?」
「…………え?」
「僕だって、閨房術の内容くらい知ってるよ。相手が好きな子だったから、実習受けたの?」
「…………相手は、先生方が決めるので。私も、忍たまも、選べませんが」
「そうなの?じゃあ好きでもない子が、相手だったの?」
「まあ、そうですね。そうじゃないと意味がないと思います、実習の」
「意味?」
「好きな相手に抱かれるなら、ただ幸せなだけです。そういう相手とではないから、意味があるんです、きっと」

閨房術の意味を知っているのかと少し驚いたけれど、彼は忍術教室に通っていたのだし、学園で事務員として働くなか知識が増えていくのは当然だろう。
だけど実習の委細までは知らなかったようで、彼はまるでおとぎのようなことを尋ねてくる。
好きな人だから、実習を受けた?そんなのまるで恋物語のよう。物語のように素敵で、物語だからこそ現実ではない。
あの夜、私の実習相手は初対面に近い忍たまの先輩だった。そこに恋も愛もなかった。あるはずもなかった。ただ、実習をこなすという互いの義務感だけ。
だけど、それでいいのだと思う。それで正解だったのだと思う。
恋も愛もない相手に抱かれたことで、私はある程度の覚悟ができたはずだ。くのいちになるための覚悟がきっと、少しでも、確かに。

「………………」
「答えるのが、遅れましたが。私もう、行儀見習いじゃないんです。今はくのいち志望なんです」
「……………………」
「去年の秋から、くのいちを目指すようになって。他の子たちと比べて勉強も実習も全部遅れていたから、それもあって一足先に、閨房術の実習を」

すっかり黙り込んでしまった小松田さんに、私はようやく彼からの質問に答える。
かなり端的な説明になってしまったけれど、彼だってかつては同じ街のひとだったのだ。私の実家がとたんに消えたことくらい、耳にしているだろう。
それらを照らし合わせてくれたなら、私がくのいち志望を目指す理由も、なんとなく察してくれるはずだと希望を持つ。
実家のことまで、わざわざ説明したくはなかった。口にしたくなかった。いつ気にせずに口にできるようになるのかと、どこか他人事のように思った。

「じゃあ、僕でもいいよね」

幸い、小松田さんからさらなる質問を受けることはなかった。
代わりに受けたのは、彼の視線。真っ直ぐで、少し潤んだ、だけど強い視線。
ずんずんと大股で私に近づいたかと思うと、彼は膝をつき、私に目線を合わせ、ぐっと私の肩を掴んだ。
次に、がちんと唇、正しくは前歯に鋭い痛み。なかなかの衝撃だったけれど声をあげることは叶わない。
何故なら、唇を塞がれているからだ。何にって、それは目の前にあるあの強い瞳が、物語っている。

「好きじゃない人とするのが意味があるなら、僕ともして」

それはあまりにも拙い口づけだった。
それはあまりにも理に適わない理由だった。
だけどその申し出を、私の肩を押す両腕を、押し倒した私の装束を脱がせる手を、拒絶しなかったのは。
目の前の彼の瞳が、あまりにも強かったからだ。そのくせ今にでも、泣き出しそうだったからだ。
そして彼からはやはり、あの街のにおいがしたから。それが懐かしかった。悲しいくらいに、本当に懐かしくて愛おしかった。
どうしてそんなものを拒絶できるだろう。どうしてあの街のかおりを、抱きしめずにいられるだろう。
そうして"僕は初めてだから"とぎこちない手つきの秀作くんに抱かれながら、私は思い知るのだ。
私は今でもあの街を求めている。私はいまでも両親を、かつての日々を――――――忘れられない、哀れな置いていかれたこどもなのだと。