烏丸という、忍の世界では名の知れた家に生まれた。
優秀な忍を多く生み出すことで有名な家だったが、それはあくまで"しのび"の話。
くのいちについては、烏丸はあまり秀でていなかった。理由は単純明快で、烏丸という血はあまり見目が秀でていないからだ。
それを危惧した父は、見目麗しい女性を娶った。しかし第一子で長女である私は、烏丸の顔立ちを強く継いで生まれてしまった。
その時点で、私はお払い箱だった。自他共に厳しい父にとって、見目が秀でていない忍の娘など、不出来も同然だったのだ。
物心ついたときには父から冷遇されてはいたが、幸いにも美しい母は私を愛してくれた。後に生まれた三つ下の弟も、私を姉と慕ってくれた。
そうやって、この世の全てから否定されていたわけではなかったけれど。私はやはり、父親という存在に愛されたかった。父に認められたかった。
"お前は忍の才だけはあるのに"と、"見目が秀でていたならば、完璧だったのに"と、いつだって残念そうに零す父を、一度でいいから喜ばせたかった。
だから私は、忍術学園への入学を控えた春。父がぽつりと何気なく呟いた一言を、胸に留めたのだ。
「皐月の同年に、鉢屋の倅もいるらしい。鉢屋は優秀な家系だ、いずれ縁を持ちたいものだな」
父がそう褒める、鉢屋の家系を。私と同年だという、鉢屋の倅を、もしも、落とすことができたなら。
婿として、烏丸に引き入れることができたなら。父は私を娘として、ひいてはくのいちとしても、認めてくださるのではないかと。
そんな密かな野望を抱きながら、私は忍術学園に入学した。
数多い新入生のなかから鉢屋の倅、もとい鉢屋三郎を見つけ出すのは簡単なことだった。
奴は冗談めいた面を日替わりでつけていたし、日々悪戯を仕掛ける悪童としてすぐに有名になったからだ。
だけど私は、進んで鉢屋三郎、その男に関わりに行くことはなかった。父の言葉、"鉢屋と縁を持ちたい"という、あの言葉を、忘れたわけではないけれど。
しかし冷静に考えれば、無理なのだ。私のような見目の秀でていない女が、鉢屋だなんて一癖も二癖もある家の男を落とそうなどと。無茶な話なのだ。
そう、心の底から思っていたのに。案外私は諦めが悪く、入学からちょうど一月。同級生の忍たまを、"くのいち教室にご招待する"という名の実習が行われた。
その際、私は鉢屋に目をつけた。幸い、厄介な悪戯お面小僧として有名であったそいつをわざわざ狙うくのたまは他にいなかった。
"私が案内するよ"と、初めて奴に言葉をかけた際。あからさまに、鉢屋三郎は般若の面越しではあるが警戒心を丸出しにした。ついでに、嫌悪感も。
なかなか勘のいい奴である。他の忍たまは、へらへらふらふら、くのたまに誘われるがままだったというのに。
まあ、私ももう少し、見目が秀でていたのなら。この男だって、へらへらと喜んで誘いに乗ったのかもしれないが。
こうも警戒心を抱かれてはどうしようもないので、私は既に仕掛けで点をとっていることもあり、一番近くにあった罠、落とし穴に鉢屋三郎を嵌めた。
半ば無理やり背中を押して、そこに誘導したとも言えるが。それでも落ちる瞬間、鉢屋三郎は小さな悲鳴をあげていたので、成功と言えば成功だろう。
穴の中を覗き込んで、おそらく面越しに鉢屋三郎と目が合っても、奴は文句のひとつも言わなかった。
何をする、とも、ふざけるな、とも。口を利く気もなくなったのかもしれない。当然だとも思う。
けれど先輩方にも手伝ってもらった落とし穴は、とても深く。どうやって脱出しようか、無言ながらも鉢屋三郎は考えあぐねているようだった。
「私の婿になるのなら、助けてあげるよ。鉢屋三郎」
そんな私の、求婚と呼べなくもない突然の告白に、さすがに鉢屋三郎は"はあ?"と、間抜けな声をあげた。
けれど、それっきりだった。黙って懐から鉤縄を取り出したかと思えば、ぶんぶん遠心力をつけて、穴の淵にひっかける。
これは無視、という名の答えを頂いたわけだ。まあ、最初から無理だとは分かっていたけれど。それでも腹が立つのは、人間の摂理というもので。
ひっかかった鉤縄の先を外して、そのまま穴の中に落とし。ついでに私も懐からまきびしを取り出し、まきびしの雨を降らせてやった。
今度こそ完全に大きな情けない悲鳴をあげた鉢屋三郎を無視して、私はそのまま、待機組のくのたまが集合する一室へ戻ったのだった。
それが、鉢屋三郎と私の出会いだった。
私の方はともかく、奴にとっては最悪の出会いだっただろう。
私は無理だと分かりつつも、やはり父の言葉が忘れられず。気が向き、鉢屋三郎に隙があったのなら、よく奇襲をかけていた。
最初のように、穴に落としたり。罠にかけてみのむしのように吊るしてやったり。手裏剣を何度も体すれすれに投げつけてやったり。
そのたび私は、"私の婿になるのなら助けてやる"と、最初と同じ求婚の言葉を口にするのだが、当然のように鉢屋三郎はそれに頷くことなどなかった。
本当に、本当に、鉢屋三郎にとって私は迷惑極まりない最悪な女であったと思うが、案外奴が甘い人間だと知ったのは一年生の秋だ。
忍たまくのたまの合同実習の際、先生方が決められた組み合わせで、私と鉢屋三郎が組むことになった。
授業となれば、いくらその機会が転がっていようとも鉢屋三郎に奇襲をかけたりなどしない。真面目に実習をこなしていた。
それに対して、鉢屋三郎は心底感心した様子だった。"筋がいいな"、"真面目にしていれば頼もしいのに"、"烏丸とはやはり、あの烏丸か?それは優秀なはずだ"と、何度も何度も。
私の実習での態度と実力が相当気に入ったのか、後に自由に組み合わせが決められる実習の際には、鉢屋三郎の方から声をかけてくるようになった。
だけどやはり、時折私がかける奇襲、その際の求婚の言葉には、いつだって鉢屋三郎は応えなかった。
そんな日々を過ごす、二年生の夏のことだった。山田先生に御用があり、その帰りの教職員長屋から少し離れた、人気のない場所。
ふと、ほんのり薬草の匂いを感じて、足をとめた。新野先生のお部屋が近いのだろうかと思ったが、それにしては匂いが鮮明すぎる。
誘われるまま足を進めれば、大きな茂みにたどり着く。臆することなく、そこへ頭から身体を入れると、茂みに隠れるように、ひとりの人間がいた。
一瞬、たった一瞬だったけれど。それは鉢屋三郎だった。鉢屋三郎が、素顔で、そこに座り込んでいた。
本当に一瞬で、すぐにその素顔は、奴に馴染んで久しい不破雷蔵の面で隠されたけれど。
だから、鉢屋三郎の顔立ちなんてまるで分からなかった。わかったのは、少し赤く爛れた、彼の頬。
「…………びっくりした。烏丸、もう少し気配を出してくれないか」
「忍を目指す者に無理を言うね」
「……見たか?」
「いいや、残念ながらあまり。だけど、怪我、かな?それは見えたよ」
「怪我ではない」
「そのわりには、軟膏を塗っているようだけれど」
鉢屋三郎の手元には、軟膏があった。まだ蓋が閉められていないそれは、薬草の潰しが甘く、お粗末な出来であることが見てとれる。
薬のにおいの正体はこれだったのだろう。この軟膏を、顔に塗っていた。だから鉢屋三郎はきっと、先ほどまで素顔だった。
それは何故だろう、怪我ではないというのなら、あの爛れは何なのだろう。――――その答えは、鉢屋三郎という人間を考えれば、簡単だ。
四六時中いつだって、変装術を施している鉢屋三郎。その素顔にかかる負担は大きいのだろう。今は夏であるし、汗をかいては余計ひどいのかもしれない。
だけど素顔におきた症状を、まさか保健委員に見てもらうわけにいかず。だから自分で手当てをしていたのだろう。わざわざ、自分で薬まで作って。
天才だとか、変装名人だとか、言われているが。そう呼ばれるために、裏でこうやって努力をしていたのか。おそらく今まで、ずっと。
その姿を、素直に好ましいと思った。頬が爛れてまで、変装術に打ち込む姿が。その始末を、全て自分でまかなおうとする姿が。
どれも、なにもが、好ましく見えてしまった。鉢屋三郎という人間そのものに、胸が高鳴ったのは、これが初めてだった。
「ここ数日急激に暑くなったから、お前も素肌の手入れが大変だね」
「……はは、やはりわかったか。そうだ、冬はここまで酷くはならないんだがなあ」
「軟膏くらいは、医務室からもらえばいいだろうに」
「一度はちゃんと患部を見せないと、くれないんだとさ。盗もうとしても駄目だ、保健委員全員の目が光っている」
「お前、ただでさえ普段から素行が悪いから」
「不良のように言ってくれるなよ」
「私が盗んできてあげようか」
きょと、と鉢屋三郎は目を瞬かせる。だけどすぐにじとり、と。不破雷蔵、その本人ではありえないだろう憎たらしい表情に早変わりする。
どうしてだろう。私は、この表情を。今まで何度も見てきた、見慣れてしまった、この表情を。
今までは、なんとも思わなかったのに。憎たらしい表情だな、としか、思わなかったのに。
どうして、可愛らしく思ってしまうんだろう。どうして、胸が、高鳴るのか。
「お前の婿になるなら、か?」
「…………」
「家のためとはいえ、お前も頑張るな、好きな男相手でもないのに」
「…………それはそうだけれど。これに関しては特別、対価なしだ」
「は?なぜ?」
「私だって忍を目指す者。同じ道を懸命に励む者を、応援したいと思ってもいいだろう?」
そうだ。私は鉢屋三郎を応援したいのだ。頬が爛れてまで、変装術に打ち込むその姿を、人として尊敬した。
ただそれだけだ。それだけであってほしい。それ以外の、感情なんて。
私には必要ないし、私では持て余してしまうだろうから。いらないのだ。
それなのに、早速医務室へ向かおうとした私を、後ろから声だけで鉢屋三郎が引き止める。
相変わらず憎たらしい表情は残したまま、困ったように、鉢屋三郎は笑っていた。
「烏丸お前、そうやって根はいい奴なのになあ。仕掛ける罠がもう少し優しければ、もっと嬉しいんだが」
ならば、本当に、こいつに仕掛ける罠を少しだけ優しくしてやろうと。
一瞬でも思ってしまったのだから、どうやら私は相当に単純で、もう手遅れらしい。
それすらも気付かないように、見ないふりをして、私は再び医務室へと足を進めたのだった。
それから、私は定期的に軟膏を医務室から頂戴し、鉢屋三郎に渡すようになった。
何度も繰り返せば私も保健委員に目をつけられるというもので、盗むのが難しそうだったなら、自ら手作りをしたこともある。
鉢屋三郎のひどい出来のあれよりはまともなものを作れたので、そう茶化しながら手作りの軟膏を手渡せば、"俺は薬の作り方なんて知らないんだ"と拗ねられた。
その、表情も。万能そうに見えて、出来ないものがあることも。そうやって、案外不器用な部分も。
いつだって、どれだって、私が必死に隠そうとしている、私の弱い部分を刺激した。
だからだろうか。私はその腹いせをするかのように、学年があがったということもあるが、鉢屋三郎に仕掛ける罠をどんどん過激にしていった。
その日も、そうだ。三年生の秋、私は鉢屋三郎を木に吊るしていた。それだけなら可愛いものだが、まっさかさまにだ。
ぶらぶらと吊るされる鉢屋三郎をすぐ側で、ただ眺めるだけ。面で隠された箇所はともかく、耳や首下が血の逆流によって赤くなっていくのを、ひたすら眺めるだけ。
さすがに、耳から血が噴きだす前には、助けてやろうとは思うが。限界も近いだろうに、笑みを崩さない鉢屋三郎が、どうにもつまらない。
私が成長しているように、鉢屋三郎だって成長しているのだ。罠に対する耐え性だって、日々強くなっているのだろう。
「烏丸、私は前々から思っていたが」
「うん、なんだい?」
「このような求婚が、本当に成功するとでも?」
「まあ、難しいだろうねえ」
「そうだ。おまえもくのいちを目指す者なら、色でもかけてみろ。いい加減、こんな乱暴な真似はやめないか」
「色?私が?ふふ、面白いことを言う」
笑いながら、鉢屋三郎を吊るす縄を揺らした。悲鳴にすらなれない情けない呻き声が、鉢屋三郎から漏れる。
さらに、鉢屋三郎の耳や首下が赤くなっていく。今の揺れのせいで余計、限界が近付いたのだろう。
それでも鉢屋三郎は、私の言葉に頷かないのだから。"私の婿になるのなら降ろしてあげるよ"という求婚に、頷かないのだから、頑固なものだ。
「色なんてね、綺麗どころに任せるものだよ。私のような女の役目じゃない」
「…………」
「そうだね、私の友人で言えば、八重とか、凪とか、木綿子とか…………ああ、志鶴も人好きのする性格だから、向いているだろうね」
「………………」
「だけど菫も、くのいちではないけれど、正直色に向いていると思うんだ。なぜだか分かるかい、鉢屋」
「……………………」
「あの子は、なんて言うんだろうね……人を穏やかな気持ちにさせてくれるよ。そして庇護欲もそそられる。くのいちにはうってつけだと思わないか?」
「…………………………」
「だけどあの純さは、くのいちを目指していないからこそ得られるものだろう。きっとくのいちを目指すとなれば、なくなってしまう」
「………………………………」
「そう考えると、菫のあの純さは、本当にまれなものだ。守ってやりたいと、心から思うよ」
「…………私はなぜ、お前の惚気を、鼻血を出しながら聞かなければならない」
「おや、鼻血が出ているのかい?」
「まだ、だが。出るのも時間の問題だ、すぐそこまできている。あ、出る、本当に」
鬼気迫る声色でそう言われてしまったら、仕方がない。今回も私の根負けだ。
縄を苦無で切り落とし、鉢屋三郎を宙吊りから解放する。天才と称される奴らしからず、受身をとれず顔面から落ちたのは、まあ仕方ないのだろう。
その衝撃で少しずれてしまったのか、面を整えながら鉢屋三郎は起き上がる。
非常にむっとした表情をしているのは、今まで宙吊りにされていたこと、顔面から落とされたこと、そしてきっと、先ほどまで私が話していた内容によるものだろう。
久遠寺菫という、私の同室。生粋の行儀見習いで、穢れを知らない、純でおっとりとしたその子が、私は大好きだった。
自分とはまるで違うその姿に、羨望の気持ちも多少あれば。素直に、可愛らしいと、守りたいと思ってしまう不思議な魅力が、彼女にはあった。
そんな、久遠寺菫のことが、鉢屋三郎は嫌いだ。こいつの同室、そして一番の友人であろう不破雷蔵が、久遠寺菫に好意を示しているので、さしずめ嫉妬である。
この男は、不破雷蔵のことになると分かりやすい。まるで子供だ。雷蔵、雷蔵と、いつだって好意をあらわにし、いつだって一番の存在として扱っている。
「お前は本当に、久遠寺が好きだな」
「鉢屋に言われたくないね。お前だって不破が好きだろう」
「その私から見ても相当だと、言っているんだよ」
「そう?褒め言葉として受け取っておくよ」
「…………」
ぶっすりと、機嫌の悪さを隠さずに鉢屋三郎はふてくされる。
かと思えば、突然立ち上がった。耳や首下を見るに、血の逆流はなおったのだろう。
そのまま早々に立ち去るのだろうと思った。いつも、私の罠にかけられた後は、当然ではあるが鉢屋三郎は不機嫌に去っていく。
しかし、今回は違った。私の横を通り過ぎたものの、その際に私の腕を掴んだ。そしてそのまま、歩き出す。私はそれに引きずられてしまう。
「なに?」
「先ほど、聞き捨てならない言葉があった」
「何だろう、変なことを言ったかな」
「色は自分の役目ではないと言ったな?綺麗どころの役目だと」
「ああ、言ったね。事実、そうだろう?」
「なんとなく、前々から気付いてはいたが…………」
歩く足、私を引きずる腕を止めないまま、私の半歩前を歩く鉢屋三郎は少しだけ振り返る。
右目だけと、目が合った。平時のように、じとりと伏せられたそれには、叱責の感情が伺える。
その、瞳の理由は、まったく分からないが。今、鉢屋が何処に向かっているのかは、なんとなく分かってきた。
忍たま長屋が近付いている。おそらく私はこのまま、忍たま長屋に行き、そして鉢屋三郎の自室にでも連れ込まれるのではないだろうか。
目的地は分かれど、その理由が、連れ去られる理由が、私にはやはり分からないのだけど。
私の腕を掴む手を振り払わない、その理由は。わかる。わかっている。自分のことだから。
恥ずべきことだけれど、私はこの手を、振り払いたくないからだ。せっかく触れられた、鉢屋三郎の手を、みすみす叩き落したくはなかった。
「お前、自分の見目に自信がないだろう」
「ああ、そうだね。だけど見目以外のことならば、それなりに自信はあるよ」
「そうやって、中途半端に自信を持っているのが、見ていて調子が狂うんだ」
「むやみやたら全てに自信を持つのが正解だと?自分を客観視できないようでは、どうしようもないよ」
「ほら。そういう物言いが、全く自信がないことの表れだ。何故そこまで悲観する?大きな傷跡があるわけでもないのに」
「何故って…………」
自分の顔に自信がないだなんて、物心ついたときからなのだから、仕方ないだろう。
秀でていなかったからだ。美しい母をもったのに、その美しさを全く継がなかったからだ。
それで父に見限られた。だから父に認められなかった。それなのにどうやって、自分の顔に自信を持てばいいのか。
しかし、それについてこうも真っ向から指摘されたのは初めてだ。
"自分の顔に自信がない"と、わざわざ公言したことはない。そのように振舞った覚えも、ない。
だけど鉢屋三郎には気付かれてしまった。どうしてだろう。やはりこの男が、普段から"顔"を使っているからだろうか。
だから他人の顔にも、他人の顔に対する感情にも、敏感なのだろうか。
「女の顔なんてな、化粧でどうとでもなるんだ。そのように出来ているんだよ」
「また暴論を」
「実習の際見かけたことがあるが、お前は化粧が下手だ。いや、下手とは違うな。手を加えなさすぎる、無難なものしかしない」
「無難の何が悪い。冒険して失敗するよりはマシだろう」
「だからこの私が、めかしてやると言っているんだよ」
そう言い切ると同時に、鉢屋三郎はとある長屋の一室の戸を開いた。
そこに連れ込まれ、きっと鉢屋三郎の自室であるそこに二人向かい合って座り込み、有無を言わさず鉢屋三郎による化粧術が始まってしまう。
とりあえず、私は黙って化粧を受けていた。ここまでついてきたのだ。今更暴れる、というのはなしだろう。
それに鉢屋三郎の化粧術には純粋に興味があった。この秀でていない顔を、どう化かしてくれるのかと、楽しみでもあった。
もしも、どうにもできなかったとしても。それはそれで、鉢屋三郎に化粧術の限界を私が教えてやれるようで、面白いとさえ思えた。
それに、なにより。人の顔すら己の変装術の糧にしようとする、この行動が、私は好ましかった。
遠慮なく、私の頬やら目尻やら唇に触れる、無骨な手が、どうしようもなく可愛らしかった。
「ほら、できたぞ。どうだ、化粧とはすごいだろう」
四刻半ほどの化粧を終え、満足そうな顔をしながら鉢屋三郎は鏡を手渡してきた。
素直にそれを覗き込めば、女が一人。私である。私の面影がある。が、私ではない。いや、私なのだが。
そんな風に少し混乱してしまうほど、化粧の出来栄えはよかった。さすが鉢屋三郎、といったところだろう。
「これは…………上出来だが、ここまでいくと化粧ではなく変装だろう」
「そんなに手は加えていないぞ。烏丸に化粧をするのは初めてだからな、似合う色や粉を探すのに手間がかかっただけだ」
「本当に?世辞はいらないよ?」
「うるさいな、私の腕を疑うのか。ならばその辺の忍たまにでも色を使ってこい、それで分かるだろう」
「そう?それなら、鉢屋」
「なんだよ」
「私の色にかかってくれ。私の婿に、なっておくれ?」
「………………は?」
「私が色をかけたいのは、お前だけだよ、鉢屋三郎」
このときばかりは、化粧の出来に浮かれていたのか。私の言葉は、全てが本心だった。
誰でもない鉢屋三郎に、私の色にかかってほしかった。私の婿になってほしかった。
それを、父が望んでいるから。そうすれば私は、父に認めてもらえるだろうから。
そして、くのいち失格と言われることは重々承知の上。
私は鉢屋三郎が好きだから、色にかけたいのは鉢屋三郎だけだった。
変装術に励み、ひたすら励み、憎たらしくて飄々としていて、だけど時折不器用で子供らしい鉢屋三郎が、私は好きだった。
「……………………」
「ほら、ひっかからない」
元より、本当に鉢屋三郎を色で落とせると思っていたわけではない。
確かにこの化粧の出来は十分だが、元々これは鉢屋三郎がめかしたもの。施した本人が引っかかるはずもない。
それがなくとも、私は鉢屋三郎を普段から罠にはめたりと色々仕出かしているのだから。
実習で組む際や、軟膏を渡す際。そのときは、笑顔を見せてくれたりもするけれど。鉢屋三郎にとって私はやはり、鬱陶しく恐ろしい女でしかないのだろう。
わかっていた。わかっている。だけどさすがに、無言と無反応では、傷付くというもので。
軽く化粧についての礼を言いながら、立ち上がった。そして戸に手をかける、自分の部屋に化粧を落とす道具はちゃんと揃えてあったかどうか、考え事をしながら。
「悪いが」
瞬間、戸に触れていなかった方の左腕を勢いよく引っ張られた。
それとほぼ同時に、額に柔らかな感触。ちゅ、と聞きなれぬ高い音を残し、離れていったそれは、一体なんだったのか。
本当にそのときは、分からなかったのだが。改めて振り向き、鉢屋に向き直ると、面では隠しきれない耳が、首が、真っ赤になっていたので。
「ひっかかったよ。俺も、健全な男なのでね」
その言葉を最後の後押しとして、私は額に口付けを落とされたのだと知った。
ぽかんと立ちすくむ私に、鉢屋三郎は顔を伏せ、"さっさと帰れ"と手払いまでするので、大人しく従った。
なんだというのだ。なんだというのだ。自分がめかした化粧に引っかかる男がいるか。なんだというのだ。
馬鹿みたいに、私はそんなことばかり脳裏で反芻しながらくのいち教室へと向かう。
その最中ずっと、胸の高鳴りも、唇に浮かぶ笑みも、泣きそうな衝動も、おさまらなかった。おさめる術を、私は知らなかった。