「尾浜くん。わたし、明日からまた実家に帰るね」
珍しく木綿子の方から俺の部屋にやってきて、天井裏から降りてくると早々にそう告げられた。
兵助がちょうど今は委員会でいないので、俺たちはふたりきり。
木綿子が今放った言葉の意味を理解するよりも先に、じっと俺を見つめる木綿子の顔が、多少はまともであることに俺は安堵していた。
まとも、と言ってしまうと少し語弊があるかもしれない。木綿子は相変わらず可愛い顔をしているし、怪我をしている、というわけでもない。
ただここ最近、泣いてばかりいた。どうにか涙を堪えられるようになっても、悲しみは隠しきれていなかった。
今も完全に、それが消えてはいないけど、多少は元気になったように見えるから。だから俺は、安堵していたのだ。
一月ほど前に、木綿子の親友のひとりがまた死んだ。その傷も癒えないうち、半月ほど前に、木綿子の親族のひとりが死んだ。
後者については俺はその葬儀に参加していないし、木綿子も多くを語らないので詳しくは知らない。
とても近しい間柄で、とてもお世話になった人が亡くなったのだと、それだけを涙を零しながら教えてくれたのは記憶に新しい。
この、多少元気な様子だと。おそらくまた親族が亡くなった、とかではないだろう。今回実家に帰るのは、悲しい理由などでは、ないのだろう。
そうであってほしいと思った。ここ最近の木綿子は、悲しいことが起きすぎている。いくら俺が必死に慰めようにも、支えようにも、間に合わないくらいに。
「今度は何日くらい?」
「そうだね……うーん、一週間くらいかな」
「木綿子、夏から授業休んでばっかりだけど、大丈夫なの?」
「尾浜くんがそれを言うの?」
困ったように、木綿子は笑った。それもそうだねと、俺も苦笑いを浮かべた。
六年生の初夏から、木綿子は授業を休み度々実家に帰省するようになった。
俺が木綿子に求婚してから、くのいちを目指さないよう将来の話し合いのため、頻繁に実家に帰ることが増えた。
とても大変無責任なことだと思うが、俺はその話し合いに一度たりとも参加していない。
勿論、参加しようという意思はあったのだが。おそらく、先方から断られた。はっきり言われてはいないが、木綿子が"うちだけで話し合うから大丈夫"と、やんわり拒絶した。
そう言われてしまっては、無理やり参加するわけにもいかない。ただでさえ娘を掠め取ろうとしている最悪な男という心象を、これ以上下げるわけにいかない。
だから俺は黙って指をくわえてはらはらとしながら、成り行きを見守っていた。
暑い盛りの夏が終わるころ、ようやく話し合いの決着はついた。かつての予想どおり、木綿子の兄がとても支援してくれて、俺にとって一番嬉しい結果となった。
「行儀見習いはくのいちクラスと違って卒業のための必修授業はないから大丈夫だよ」
「ならいいんだけど。いつから帰るの?」
「今から。部屋に戻って着替えたら、すぐに」
「途中まで送ってく?」
「ありがとう。だけど、他にも寄るところがあるから平気」
「そっか」
また、出番なしだ。俺はあまり、木綿子の実家について関われない。関わらせてはもらえない。ほんの少しのことで、あってもだ。
仕方ないとは思う。理解している。俺は木綿子の本来決められていた道を、横から邪魔して連れ去った不届き者だ。だけど一切気にするな、というのは無理な話。
卒業後結婚の約束をしているというのに。俺は一度も木綿子の実家に行ったことはない、挨拶をしたことはない。これからもしなくていいと、木綿子は言う。
木綿子の家族が、両親が、きっと拒絶しているんだろう。俺の顔なんて、見たくもないのだろう。それは、まあ、わかるけど。
だけどせめて、木綿子の兄には。俺たちを応援してくれた、そのお兄さんには、いつかちゃんと直接、お礼を言いたいと。
その気持ちを告げたとき、木綿子は笑った。困ったように笑った。悲しそうに笑った。つい先日、三日ほど前の話だ。
それほどまでに木綿子を困らせても、実家との、家族との関係を難しくしても。俺はもう、可愛いこの子を手放すつもりはない。
「尾浜くん」
なんて、ひとり物思いに耽っていると、名前を呼ばれた。
俺の正面に座っていた木綿子は、いつの間にか立ち上がっていて、俺を見下ろしている。
なんだ、と見上げれば、頬に手を添えられ、さらに上を向かされた。木綿子は背を丸めて、俺に身を近づける。
ちゅ、と。可愛らしい音を立てて、可愛らしい触れるだけの口付けを、木綿子から落とされた。
口付けなんて初めてじゃない。深いものも、口付け以上のことだって。今まで、何回もしている。それなのに。
大きく心臓が鳴った。触れた唇が熱い。これはひどい。木綿子はこれから、実家に帰ってしまうのに。こんなの、生殺しじゃないか。
「行ってきます」
「………………うん。気をつけてね」
にっこり笑って、木綿子は天井裏にもぐりこんだ。
天板を嵌める前、もう一度顔を覗かせる。わずかにその顔は赤くて、瞳が潤んでいた。
自分からしたくせに、恥ずかしがっているのだろうか。それともまた、不意に悲しくなって、泣きたくなってしまったのか。
どっちでもいいよ。帰ってきたら、俺がまた、たくさん可愛がってあげるから。だから早く、帰っておいで。
「いってきます」
――――それが、木綿子と交わした最後の口付けで、最期の会話だった。
木綿子はそれきり、帰ってこなかった。
予定の一週間が経っても、十日経っても、半月経っても、木綿子は学園に帰ってこなかった。
どうにか先生方から聞き出した情報によると、実家にも帰っていないらしい。実家の方も、困惑して、捜索しているそうだ。
俺だって、時間の許す限り。授業や実習のないわずかな時間を使って、学園の周囲を探してみたりはしたけれど、手がかりの欠片も見つからない。
そして木綿子が失踪して、ちょうど一月後。学園と、木綿子の実家での話し合いの末、木綿子の死亡が認められた。
正しくは、木綿子は"死亡退学"という形がとられることになった。
その、数日後。学園の決定から数日後、俺は木綿子の同室である彼女の親友のひとりから、一枚の手紙をもらった。
木綿子の私物整理をしていると、俺への手紙を見つけたらしい。それを届けにきてくれたそうだ。
私物整理。実質、遺品整理。俺も、それを、手伝おうという考えが、よぎらないわけではなかったが。
できなかった。手伝えなかった。木綿子が死んだと、まだ俺は、認めたくなかった。
だからその手紙だって、俺は受け取るだけで、目を通すことはしなかった。
まるで遺書の如く用意されていたかのようなそれが、恐ろしくて仕方なかった。
俺がその手紙を読むことができたのは、それを受け取ってから五日後の朝方のことだった。
その日は、実習として、学園からの忍務を受けていた。俺は六年生、そして卒業は目前。
そんな俺に宛がわれる忍務なのだ。それなりに、危険と覚悟がつきまとう。
だから俺は、それを読んだ。読みたくはなかったけれど、読まないまま万が一のことがあれば、きっと後悔すると思ったから。
結論として、読んで正解だった。俺はさらなる覚悟と決意を、固めることができた。絶対に忍務を成功させると、必ず忍になり、学園を卒業すると、改めて胸に誓った。
その日から、卒業までの数ヶ月は慌しかった。
授業や実習は勿論、ずっと円満だった友人関係が荒れてしまったし、その隙間を見つけては、木綿子の実家へ通いつめたからだ。
最初のうちは門前払いにされた。だけどようやく、話を聞いてもらえて、話を聞かせてもらえて、情報を、もらえて。
俺は必ずそれを成し遂げると、自分に誓った。木綿子の両親にも告げた。ふたりは静かに頷くだけで、だけど確かに悲しみに震えていた。
俺は元々、忍の里の生まれである。
だから何処かの城へ就職したり、フリーになることはせず、生まれ故郷の里そのものに仕えていた。
里と学園は昔からとても親しく、だからうちの里が受ける依頼は、大抵学園関連のもの。
生徒時代は学級委員長委員会に属していて、さらには若造ということもあり、卒業してから俺はそれはもうこき使われる日々を過ごしていた。
二十歳を過ぎてからは、今度は後輩を教育する仕事を任されたりなんだりで、本当に里にいいように使われていたと思う。
だけどそのおかげで、様々な人脈をつくることができた。様々な情報を得ることもできた。
多少ならば個人的に忍務をうけることも、黙認されることができた。それはとても、俺にとってありがたいことだった。
そうやって、自分との誓いのため、黙々とひっそり事を進めていた。動いていた。探していた。
ようやく、成果がみのったのは、二十五の冬だ。あの子が死んでしまってから、ちょうど十年目の、寒い夜。
似た女を見かけたと情報を得た。その女なら隣町にいると情報を得た。その女ならそこの宿に泊まっていると、情報を得た。
ここまで来れば、簡単だった。その女が泊まっているだろう部屋に押し入り、大方違ってはいないだろうが、当人であるか確認するだけ。
だけどわざわざ尋問するまでもなかった。その外見は、彼女の両親から聞いたものと全て、一致していたし。
忌々しくも、憎たらしくも、その汚らわしい女は。俺がかつて彼女に永遠を誓ったはずの、簪をつけていたのだから。
一言も声をかけることなく、その女を殺した。
むごたらしく、ねちねちと時間をかけて殺してやりたかった気持ちもあるが、こいつが"生きている"という事実に腹が立ったので、さっさと殺した。
女からしてみれば、訳が分からなかっただろう。いったい、何処の誰だと。いつの、恨みを買った奴だと。きっと見当もつかなかっただろう。
それだけ、この女は生前、恨みを買っていたはずだ。俺のように、いくつもの人間から恨まれていたはずだ。
俺が今しがた殺した女は、くのいちだった。汚い手段で事を進めると悪い意味でひっそりと有名な、醜女だった。
だけど、別に。今俺が抱えている忍務だとか、村が請け負っている忍務にとって、敵というわけではなかった。少なくとも、俺が把握している限りでは。
これは、俺の個人的な感情だ。個人的な怨みだ。この女が、木綿子を殺したから――――――その、敵討ちだ。
ずっと。ずっとだ。ずっと、この女を探していた。木綿子がこの女に殺されたと知って、木綿子の両親にこの女について聞いて、ずっとこの女を、捜していた。
ねえ、木綿子。お前の敵を討ったよ。お前の敵の、敵を討ったよ。
だから褒めてよ。笑ってよ。また口付けてよ。帰ってきてよ。
なんで、おまえ、弱いのに。諜報とかはともかく、戦いなんて、本当に弱かったのに。自分でやろうとしちゃったんだよ。
俺に言ってくれたら。俺がやってやったのに。なんで、死んじゃったんだよ。
尾浜くんへ
こんにちは。尾浜くんにこうして手紙を書くのは初めてですね。
この手紙が尾浜くんに渡っているということは、わたしの死亡が確認されたか失踪が認められて、わたしの私物整理が行われたからだと思います。
わたしの死体が見つかっていなくても、たぶんわたしは死んでいると思います。
帰省すると言って尾浜くんとは別れましたが、実は嘘でした。ごめんなさい。
この前わたしは身内の葬儀で実家に帰りましたが、それは兄の葬儀でした。
兄には恋人がいたんですが、実はその恋人は敵のくのいちでした。兄はその恋人に殺されました。
わたしは兄のことが好きでした。兄が死んで悲しいです。兄を殺した恋人が許せません。
だからその恋人を殺しにいきます。相手はプロのくのいちなので、勝てるはずがないので相打ち覚悟です。
本当は相打ちも無理だと思っているけど、大事な家族が殺されて何もしないわけにはいかないです。
尾浜くんのことは本当に好きでした。尾浜くんの求婚が嬉しかったのは本当です。尾浜くんと結婚したかった気持ちも本当です。
わたしと尾浜くんが本当に恋人らしかったのなんて半年たらずだけど、その時間は本当に幸せでした。
尾浜くんが怖かったときも、今思い返せばそれなりにいい思い出かもしれません。でもやっぱり、あの頃の尾浜くんは怖かったです。
それから、求婚のときにくれた簪とても可愛かったです。本当にありがとう。
とてもとても気に入ったのでそれを敵討ちのお供に持っていきます。
それではお元気で。さようなら。
東 木綿子
俺に残された手紙だった。俺に残された遺書だった。俺に残された、木綿子の最期の、言葉だった。
木綿子の両親によれば、木綿子の兄が死んでしまったので、木綿子を跡継ぎにする予定だったらしい。
木綿子の婿を東の跡継ぎにしようと、話が進められていたらしい。だから、俺との結婚の話はなかったことにするとも。
なあ、木綿子。俺たちを応援してくれるお兄さんがいないから、もう無理だって思ったの。
だったら俺は、お前と二人で逃げたよ。俺の里からも、木綿子の家からも、二人で逃げた。
そうするだろうって、お前は分かっていたのかな。俺なら、そうしちゃうんだろうなって、お前、思ったのかな。
だから、俺のことも、お兄さんのことも、両親のことも。全部ひっくるめて、胸にかかえて、ひとりで死んじゃったの?
馬鹿だね。ばかだね。ひどいな。でも、そんなずるくて、強くて、弱くて、可愛いお前だから、俺は好きだった。
ただ可愛いだけじゃない、可愛くないところもある、木綿子だったから。
俺は初めて会ったときから、お前が好きだった。お前にふられてからも、お前が憎たらしいくらいに好きだった。
一筋縄じゃいかなくて、だけどいざとなると心配なくらい単純に俺を好きになったお前を、俺だけのものにしてしまいたかった。
「木綿子」
彼女の名前を呼びながら、絶命した女の髪から簪を抜き取った。
月日が経ち、さらにはこの女がまともな手入れをしていなかったからか、わずかに色褪せ錆びたそれ。
この簪を、白髪になるまで、その髪に、木綿子につけていてほしかった。俺の隣で、つけ続けていてほしかった。
「木綿子、」
敵討ちも終わってしまった。
それなら俺はこれから、何のために生きていけばいい。
木綿子はもういない。十年前に死んだ。俺の怒りも、恨みも、たった今、自分で殺した。
それなら俺はこれから、いまさら、木綿子を亡くした悲しみだけに向き合って、それと生きていくというのだろうか。
そんなの寂しすぎるよ。そんなの、辛すぎるよ。なあ、木綿子。
だけど俺が、お前のところに自らいくことを、お前は許してくれないんだろう。
お前はずるくて強くて弱くて、可愛いから。これからも、俺は生きていけって、死ぬなって、言うんだろ。
だから、お前は俺だけを選んでくれなかった。ぜんぶ抱えた。だからお前は、俺を置いて、ひとりだけ先に、死んでしまった。
わかるよ。ずっとお前のこと、見てたから。好きだったから。お前の考えてることなんて、だいたい、分かるんだよ。
「…………木綿子、好きだよ」
ふざけんなよって、思わないわけじゃないけど。
いいよ。たった一瞬、たった半年足らずだけど、確かにお前は俺のものだった。
そのときの、お前は、本当に可愛くて、ほんとうに、ほんとうに、愛おしくてたまらなかったから。
その思い出と一緒に、俺は生きていくよ。それでいいんだろ。お前がそれでいいなら、俺はいいよ。
だけど、もしも次に会えたら、そのときは覚悟しておけよ。もう二度と、離さないから。何が何でも、離さないから。
手に握り締めたままの簪に、ぽたぽたと俺の涙が落ちる。
久しぶりの涙だった。十年前、木綿子の遺書を初めて読んだときに流した朝方の涙。それ以来の、涙だった。
そのとき以上に、俺は泣いた。ようやく木綿子の死について、泣き喚いた。
もう二度と、泣くことがないように。これから先、木綿子との愛しい思い出だけで生きていけるように、尽きるまで泣きとおした。
俺の涙のせいでさらに錆びてしまった簪は、ただただ可愛いだけではない、まるで木綿子そのもののようだった。