木綿子が俺の腕のなかで泣きじゃくった夜から、あからさまに俺は木綿子に避けられるようになった。
まず、俺を見かけたらまわれ右をして、くのたまの安全地帯とも呼べるくのいち教室へ逃げ帰ってしまう。
そうはいかない状況、たとえば木綿子が友人といて、俺も友人といて、なんとなく全員で話す雰囲気になった際も、木綿子はちっとも俺に視線を寄越さない。
しまいには、兵助の彼女。木綿子の同室の彼女が俺たちの部屋にやってきた際、俺が木綿子達の部屋へ向かえばそこは既にもぬけの空だ。
俺がいったい、何をしたというんだろう。いや、今まで色々、やらかしてはいるんだけど。
成績について、何度詰ったことか。何度"ばか"だと、嗤いながら言ってやったことか。それ以外にも、暴言なんてたくさん。
白い手や腕だって、何度も強く握り締めて痣をつけた。犯してやろうと、服に手をかけ、その寸前までいったことだってある。
だけどそれをしたって、なにをしたって、木綿子が俺を避けることなんて、なかったのに。
あの夜からだ。その翌日から、俺は木綿子に避けられ始めたので、きっかけがその夜にあると考えるのは必然。
だけど俺は、俺としては、あの夜に木綿子を傷つけたつもりはない。悲しみにくれる木綿子を、上手く慰められた気も、しないけど。
けれど本当に、傷つけたつもりはないんだ。あの夜は、あのときは、純粋に木綿子がかわいそうで、かわいかった。
なにが木綿子の気に障ったのだろう。もしかして俺が来たこと、俺に声をかけられたこと、俺に抱きしめられたこと、その全部だろうか。
あのとき木綿子は、悲しんでいた。傷付いていた。弱っていた。そこにつけこんできた姑息な男だと、完全に見限られただろうか。
それくらいしか、俺にはあの夜の自分自身の失態が思いつかなかった。そしてそれが本当に原因であるなら、俺はもう、弁明のしようがない。
俺があの場にやって来たのは、木綿子がひとりで泣いているのではと思ったからで。俺が声をかけたのは、木綿子が本当にひとりで泣いていたからで。
抱きしめたのも、あまりにも木綿子がかわいそうでかわいかったからだ。弱っているところにつけこんだつもりは、毛頭なかったんだけど。
俺としては今までと違い悪意なく、他意なく、むしろ善意や良心といった類のものから起こした行動。それを根本から嫌がられてしまっては、どうしようもない。
そうやって俺も俺で負い目のような何かがあったので、俺を避ける木綿子を無理に追いかけたりはしなかった。
そんな、意図したわけではないが押して駄目なら引いてみろ作戦がきいたのかどうか。
本当に久しぶりにまともに交わす俺たちの会話、そのきっかけは木綿子だった。六年への進学を控える春休みの直前、木綿子の方から、声をかけてきたのだ。
「失礼な態度ばかりとってごめんなさい。だけど、春休みが終われば、きっと大丈夫だから」
それだけ言うと、やっぱりさっさと木綿子はくのいち教室の方へと逃げてしまう。
"大丈夫"と、言われても。俺としては何も大丈夫じゃない。何もわからない。むしろ疑問は深まるばかりだ。
春休みが終われば大丈夫、ってなんだよ。物理的に完全に俺と距離を置いて、しばらく俺の存在なんて欠片も感じなければ、大丈夫だってことか。
失礼な。ひとをなんだと思ってるんだ。だけどようやく見えてきた、希望というには悲しすぎるが、それに似た光。
春休みが終われば、大丈夫だというなら。春休みが終われば、木綿子は俺を避けなくなると、それが本当なら。
今は待つしかないのだろうなと思った。我ながら、らしくないとも思ったけど。
でも、しょうがないだろ。俺は木綿子に避けられるだけのことを、今まで散々仕出かしてきた自覚はあるし。
それに、木綿子は見た目よりもずっと強かで、だけど俺が思っていたほど、さほど強くはない女の子だと、あの夜に知ってしまったから。
親友が死んで、ひとり泣きじゃくる、可哀想で可愛い女の子だと知ってしまったから。なんだか今までみたいに、横暴で乱暴な態度は、とりづらくなってしまったんだ。
――――とは、言っても。月日は当然すぎ、春休みが終わり俺たちが進級しても、木綿子の俺を避ける態度が変わることはなく。
そうなってしまうと、さすがに、俺も我慢の限界というやつで。本性がいい加減、顔を出すというやつで。結局俺は、強行手段に及ぶことにした。
事前連絡なしに木綿子の部屋に行って、突然の俺の訪問に驚く木綿子と、木綿子の同室。兵助の彼女に、二人きりにしてくれるよう頼み、舞台を整えた。
俺とふたりきりになってしまった木綿子は、あからさまに狼狽していた。
こんな木綿子は、初めて見る気がする。今までも、俺の言動がいきすぎたら、多少驚いたり、怪訝そうにすることはあったけど。
だけどこんな風に、ただただひたすら困るなんて、初めてだ。そうさせてるのが俺だと思うと、やっぱりちょっと嬉しい。だけどそこまでのことを俺はしたか?と、自業自得ながらだいぶ悲しい。
「春休みが終われば大丈夫って、聞いたはずなんだけど」
「…………」
「木綿子の春休みは、随分と長いね?」
「…………だって、」
"なおらなかったんだもの"と、消え入るような小さい声で、顔を深く俯かせながら、木綿子は呟いた。
なおらなかった、って。なにが。俺への嫌悪感が?本人を目の前にして、失礼な。言ってくれる。
俺は確かに、木綿子を痛めつけたかった。苦しめたかった。そして俺のせいで、俺が、泣かしてやりたかった。
だけどそれは、木綿子が嫌いだからじゃないよ。そりゃたまに、本気で憎たらしいと思うときだって、あったけど。
でも、木綿子が、好きだからだよ。だから、泣いて、俺だけに、特別な顔を見せてほしかった。
嫌われるようなこと散々しといて勝手だけど、俺は木綿子に嫌われたくはないんだよ。だってそんなの、悲しいじゃないか。
「俺はあの夜、なにかした?」
"俺は何かした?"だったら、そりゃあもう色んなことを答えられそうな気がしたから、期間を限定した。
それは正解だったようで、木綿子の気配がさらに強張る。そんなもの、"なにかしました"と言っているも同然だ。
だけど木綿子らしくもない。木綿子は、そりゃ成績はたいしたことないけど、こんな感情まるわかりな態度をとることなんてないのに。
この学園のほとんどの人間が。特に、男は。木綿子は大人しくて、押しに弱い、なんでも頷いてくれる、ただの"可愛い女の子"と、今でも騙されているくらいには。
「…………わたしのこと、好きだって言った」
「え…………そんなの、いまさらじゃない?」
「いまさらなの?わたしはずっと、尾浜くんに嫌われてるんだと思ってた。少なくとも、付き合ってからはずっと、ひどいことされてたから」
「いや、まあ…………それは確かにそうなんだけど」
「わたしのこと、とにかく気に入らないんだろうなって思ってた。好かれてるなんて、思わなかった。わたしも、可愛くない態度ばっかりとってたし」
「はは。確かに、可愛くないときも多かったね」
「だから本当に、好かれてるなんて思わなかったんだよ。可愛くないわたしを知ってるのに、好きだなんて、言うと思わなかった」
俺は幸いなことに、頭がいい。回転も速い。考えが柔軟でもある。
だから、気付いたのだ。気付いてしまったのだ。もしかして俺は、思い違いをしていたのではないか、と。
俺はてっきり、木綿子に嫌われたのだと思っていた。それに納得せざるを得ない理由が、やまほどあったからだ。
なのでそれを前提として、今まで行動して、考えて、話をしていたのだが。
俺、間違ってるんじゃないか。もしかして、明るいほうに、雲行きが動いているのではないか。
だって今の言葉。今の木綿子の言葉、ぜんぶ。いいようにしか聞こえないよ。いいようにしかとれないよ。
言葉だけじゃなくて、俯いているからわずかにしか見えない顔、黒髪から覗く耳だって、真っ赤なんだから。
これが、これまでもがくのいちの術だというのなら、木綿子は本当におそろしいと思う。
「俺の告白、嬉しかったの?」
「…………わたしの本性知ってるのに、すごいなって思ったよ」
「ねえ、嬉しかったの?」
「あのときに限って、尾浜くん全然、ひどいことしないし言わないし。むしろ優しかったし、本当に驚いちゃった」
「答えて、木綿子」
「…………………………うれしかったよ。だから、なおさなきゃって思ったの。くのいちにはいらないものだから」
「なおすって、どうやって」
「……長期休暇には、いつも、実家で指南をうけてるから。他の男の人に、触れられたら、きっとなおると思ったの」
木綿子の言葉は、どこかあやふやで、はっきりと明言することはない。それは木綿子の、最後の意地なのかどうか。
だけどそんなもの無駄だ。俺には全部伝わっている、わかっている。
木綿子、お前俺の告白嬉しかったんだね。まさか、可愛くない本性見せた自分が、まだ好かれているとは思ってなかったんだ?
自分の本性知っても、俺がお前を嫌わなくて、好きなままでいて、嬉しかったんだ?
だけどそんな自分を、木綿子は許せなかったんだろ。お前の、くのいちを目指す部分が、許さなかったんだろ。
だから俺を避けた。だから他の男に、――――抱かれたら、元の自分に戻るなんて、ばかなことを考えたんだろ。
ふざけんなよ。くそが。あとやっぱり、お前そうだったんだな。男知ってたんだな。それこそそんなの知ってたけど、やっぱり傷付くよ。ばか。
「なおさなくていいよ」
ずっと俯いたままの木綿子の顔。その両頬を掴んで、無理やり上を向かせた。
下がりきった眉。揺れる瞳。真っ赤に染まった頬に、噛み締められた唇。
どうしようもない。どうしようもない。これが全て、俺だけに向けられているのだから、本当に――――どうしようもない。
触れるだけの口付けを落とすと、わずかに木綿子のそれが、ゆるめられた。もう一度、さらに柔らかくなった唇をついばむ。
木綿子の頬が、熱い。あの夜も熱かったけれど、それとは別の意味で。俺のせいで、木綿子は今、熱い。
「好きだよ、木綿子」
その熱に浮かされるように、そんな稚拙な告白を皮切りに、そのまま木綿子を抱いた。
木綿子は抵抗しなかった。拒絶しなかった。一度として、なにも。
"わたしも尾浜くんのこと、好きみたい。なんだかわたし、とても単純だね"なんて、心底困ったように笑いながら、俺を受け入れた。
そうだね。すっごく単純。すごく、簡単な女だと思うよ。散々ひどいことされた奴に、少し優しくされただけで、惚れるなんて。
正直、ばかだと思う。頭大丈夫かって思う。でもそんな、ばかで、心配になるくらい弱い部分が、そんな木綿子も、どうしようもなく可愛かった。
初めて身体を重ねたその日から、俺と木綿子はようやくとも言うべきか、本当の恋人らしく振舞うようになった。
だけどそのさなか、いつだって木綿子は迷っていたので。俺との色恋にふける自分を、いつだって許せないようだったので。
先手必勝、善は急げ。まだ夏の気配がわずかにしか感じられない季節に、俺は木綿子に求婚することにした。
早すぎる?初恋こじらせてる?浮かれてる?どうぞなんとでも。この初恋は五年ものだし、俺はいつだって、木綿子に対しては浮かれ野郎だったよ。
「ねえ、木綿子。この簪、特注なんだけど、受け取ってくれる?」
と、言いつつも。俺は木綿子の手にしっかりそれを握らせながら渡した。しかし木綿子もまんざらではないだろう。
紅や朱色、桃色の石の飾りが幾つもついた少し華美で、だけど色合いがまとまっているおかげで控えめな印象も受けるその簪を、まじまじと見つめている。
その目、その表情は。素直なものだった。可愛いものだった。簪に、きらきらとみとれていた。
その好感触な反応に、自信はあったが、ほっと内心安堵する。
「…………いいの?」
「条件があるけどね」
「えっ……あまりお金ないです……」
「俺のお嫁さんになってくれるなら、受け取ってほしい」
「………………」
「俺のお嫁さんだよ。ただそれだけだ。くのいちとの兼業は、認めない」
無茶なことを言っているとは、重々承知していた。
だって木綿子は、くのいち志望だ。忍家系の生まれだ。幼い頃から、くのいちについて学んできた、生粋の忍の子。
男の扱いがうまくて。男をその気にさせるのが上手くて。男に媚びるのが、本当に上手な、かわいい女の子。
だけどそれは諸刃の剣だ。少なくとも俺は、そう思う。
木綿子はきっとくのいちに向いている。見た目だって上等だし、男の扱いだって十分。
だけどそのせいで、くのいちに向いていたが故に、本当の恋にはてんで弱かった。
ほんの少し優しくされただけで、俺に落ちた。本当の恋を向けられただけで、俺を好きになった。
それってなんて可愛くて、なんておそろしいことだろう。そんな子を、くのいちにするのは、少しあやうすぎると思う。
それに結局、単純、俺が嫌なだけなんだけど。もう二度と、木綿子を他の男に触れさせたくない。
真実まことに、俺のものになってほしいという、ただの欲望だ。木綿子と初めて会った時からずっと変わらない、俺の、恋心。
「……………………尾浜くん。わたしにはね、少し年の離れた兄がいるの」
一世一代の俺の求婚への返事を、そうやって保留にして。
木綿子はぽつぽつ語りだす、独り言のように、思い出話のように、"兄"のことを。
そのさなかずっと、木綿子は簪を大切そうに握り締めていた。宝物のように、胸にいだくように。
わたしが物心ついたころ、兄は反抗期のまっただなかだったの。
特に"しのび"というものに反抗していて。"しのび"という在り方を、否定していたの。
両親にはすごかったけど、だけどわたしには優しかったよ。
"木綿子はかわいいから、いいくのいちになっちゃうんだろうな"って、いつも悲しそうに言ってた。
わたしに、男の人にいい顔したり、なんでも頷いたり、そういう風に媚を売ったほうがいいって教えてくれたのは兄なの。
今からそうしておけば傷付かないからって。いつかくのいちの"本当"がわかったときも、きっと大丈夫だからって。
兄なりの、配慮だったの。優しさだったの。だからわたし実際、男の人に関わる実習も平気だったし、実家での、初めての閨の指南だって、驚かなかった。
それなのに、今になって兄はわたしに謝るの。自分の教えのせいで、わたしが男の人に対しておかしくなったって、悔やんでいるの。
兄に、最近恋人ができたからかしら。"おまえは俺のせいで、恋なんてできないだろうな、ごめんな"って。謝ってばかり。
そこでようやく、木綿子は長らく間を置いた。掌中の簪にずっと向けていた視線を、俺に据える。
俺と目が合って、木綿子は笑った。誰にでも見せる、どんな男にでも見せる、可愛いだけの笑顔ではなく。
困ったような、どこか不恰好で、だけど俺だけに見せてくれる、木綿子のはにかんだ、可愛い笑顔だった。
「わたしはね、今までの生き方を後悔したことはないよ。兄の教えだって、何も間違っていなかったって思ってる。わたしはきっと、それに何度も救われたから」
「うん」
「確かにわたし、男の人に対して、少しおかしかったかもしれない。当然のように媚びて、不自然だったかもしれない」
「うん」
「でもね、そんなわたしに気付いて、本当のわたしのことを知っても、尾浜くんは好きだって言ってくれたから」
「うん」
「わたしはそれがすごく嬉しいし、…………尾浜くんとなら、一緒になりたいって、思うよ」
ようやくもらえた返事に、俺はひとまず、木綿子を抱きしめた。
だから、単純すぎるって。簡単すぎるって。大丈夫なの、木綿子。俺は心配だよ。
俺以外にも、お前のことを、お前の全部を、好きだって言える男なんて。この世にたくさんいると思うよ。
そいつら全員に、お前は惚れちゃうの?俺よりいい奴がいたら、そっちに行っちゃうの?
そんなの許さないけどね。だってもう、木綿子は俺のもの。ようやく俺のものだから、もう、離さないよ。どんな手を使っても、離さないから。
「…………くのいちにならないことは、まず兄に相談してみるね」
木綿子の兄のことなんて、俺はまず会ったことすらないし、こうやって話でしか聞いたことはない。
とんでもないことを幼き日の木綿子に教えてくれた張本人だけど、しかしきっと、とても心強い味方になってくれるのだろうなあと。
そう確信に近い思いを抱きながら、俺は木綿子をさらに強く抱き寄せ、ほくそ笑んだのだった。