木綿子の親友が死んだ。五年生の秋のことだった。
戦場視察の実習で、木綿子にとって特別な存在であっただろう親しい友人のひとりが、死んでしまった。
交流、と呼べるほど穏やかではなかったが、俺とも多少関わりのあるくのたまだったので、俺だって少しばかり衝撃を受けた。
だけどこの訃報を知った際の木綿子の衝撃は、その比ではないだろう。ひどい痛みが、苦しみが、悲しみが、木綿子を今も襲っているのだろう。
そう考えると、不謹慎ながら胸が弾んだ。誤解なきように言うが、件のくのたまが死んで嬉しいのではない。木綿子が悲しんでいるという事実が、愉しいのだ。
いつだって、今までずっと、俺に対しては笑って頷いて受諾して、そのくせ何も感情を向けてはいなかった木綿子が。
あの可愛くて憎たらしい木綿子が、くのいち教室の敷地のなか、悲しみに打ちひしがれているのかと思うと、どうしようもなく、嬉しい。
できるなら、俺が泣かせてやりたかったけど。俺が苦しめて、痛めつけて、それによって涙を流してほしかったけど。
いくら罵倒しようが、強く掴んでやろうが、しまいには犯そうと強行手段に及んでも、泣きはしなかったのだから木綿子も気が強いものだ。
しかしいくらその木綿子でも、今は泣いているだろう。親友が死んでしまっては、いくら木綿子でも、泣くだろう。
その姿が見られないのが残念だ。だけど葬儀には俺も木綿子も参加は必須。そこで顔を合わせるまではいかなくとも、泣き顔を盗み見ることくらいは、できるだろう。
ああ、本当に楽しみだ。可愛いあの子の泣き顔も、きっとかわいいのだろう。それはもう、おそろしいくらいに。
結果を言えば、俺は木綿子の泣き顔を見ることができた。
予測どおり、葬儀の場で木綿子は泣いていた。背筋を真っ直ぐ伸ばして、前方に置かれた親友の遺体を真っ直ぐ見つめて、泣いていた。
眉は下がりきって、大きな瞳から大きな涙の粒をぽろぽろ零して、頬と鼻の頭を赤くして。時々口元を押さえながら、泣いていた。
――――その姿は、なんだかとてもまぶしくて、見てはいけないもののように思えた。
だから俺は、すぐに目を逸らした。鼓動が妙に早くて、喉が乾いて、どうしようもなかった。
あれだけ渇望していたはずの、木綿子の泣き顔を。俺は見られなかった。見ていられなかった。もう一度、木綿子の方に視線を向けるなんて、できやしなかった。
どうしてだろう、と。葬儀のさなか、俺はずっと心臓をばくばく鳴らしながら自問自答していた。結局答えは、何も見つからなかった。
葬儀はあとは遺体を埋めるのみとなり、それに着いていくのは故人と本当に親しい生徒のみ。
木綿子を含めたくのたまが五人、それから六年生の先輩が一人着いていき、残った生徒はその場で解散となった。
意識せずとも、勝手に足が長屋へ向かう。気がつけば、いつもの面々が俺を含め五人揃っていたが、全員が全員、長屋へ向かう足取りは重い。
俺たち五人の恋人全員と、今回の葬儀の主は仲が良かった。親友だった。それが大きく関係しているのは、明白だった。
"俺、今日志鶴の部屋行くから。だから俺の部屋、俺いないけど、使うなら勝手に使っていいぞ"。
俺達五人が揃って珍しい、長い長い沈黙を破ったのは、八左ヱ門だった。
俺達や雷蔵達の部屋に、どちらかの恋人がやってきた場合。お邪魔虫になった片割れは、大抵八左ヱ門の部屋に転がり込んでいた。
だから今回もそのことについて言っているのだろう。俺は正直、俺も兵助もいないなら自分の部屋を誰かに使ってほしくない。
相変わらず心が広いな、大雑把とも言えるけど。普段ならそのまま口にしていただろうけど、さすがに今は、胸のうちだけに留めた。
"僕も、行こうかなあ"、"それなら雷蔵、皐月に俺達の部屋に来いと言ってくれ。そうでもしないと、自分から来ることはないだろうから"。
雷蔵と鉢屋のそんな会話で丁度、い組とろ組の長屋の別れ道についた。特に別れの言葉は交わさず、俺たちはそれぞれ部屋へ向かう。
長屋に戻っている最中からずっと、しかめっ面して考え込んでいる兵助に声をかけることができたのは、自室に入ってからしばらくしてのことだった。
"三好さんも、自分からは来ないと思うよ"、俺のその言葉に、兵助はぱちぱち目を瞬かせて、"だよな"と心底困った顔をした。
それからまたしばらく考え込んだかと思うと、いきなり立ち上がり、兵助は天井板に手をかける。
おそらく恋人の部屋へ向かうのだろう。天井裏に忍び込む兵助を、俺はただ見送るだけで、何も声はかけなかった。
兵助の恋人と、木綿子は、同室だけど。鉢屋のように、"木綿子に俺の部屋に来いと言ってくれ"と、頼むことはしなかった。
天井板が再度はめられ、部屋には俺ひとりきりになる。薄暗い室内は、しいんとして妙にひんやりしていた。
兵助が、恋人の部屋へ向かう機会はあまりない。兵助の恋人が、この部屋にやってくることの方が多かった。その方が色々、都合がいいからだ。
だけどその少ない機会。兵助がやってきたとき、兵助の恋人の同室の木綿子は、いつもどうやって過ごしていたのだろうか。
誰か友人の部屋に世話になっていたのだろうか。それが一番、自然なことだとは思う。
だけど今日は、その友人。木綿子と特に仲の良い、四人の親友の側には、それぞれの恋人がいる。
別の同級生の部屋に行くのだろうか。まあ、それが無難だろう。きっとそうするだろう。きっと、そうだ。
だから俺が出る幕はない。俺が側にいてやる理由はない。慰めるなんて、もっての他だ。
だって俺はずっと、木綿子に痛がってほしかった。苦しんでほしかった。悲しんでほしかった。泣いてほしかった。だから、放っておくに決まってる。
本当は、俺のせいで泣いてほしかったけど。俺が泣かせてやりたかったけど。あれ、ということは。そうか。なるほど。
ようやく分かった。だから俺は、葬儀のとき、木綿子の泣き顔を見て、喜ばなかったんだ。嬉しくなかったんだ。
そうか。そうに決まっている。俺が泣かせないとだめなんだ。他のことで泣いた木綿子の顔なんて見ても、面白くもなんともないんだ。
そうなんだ。そうでしかないんだ。そうじゃないとおかしいんだ。だって、そうだろ。
木綿子の泣き顔を見たときに俺が感じてしまった衝撃が、罪悪感だとか、憐憫だとか、そんなお綺麗なものであるはずがないんだ。
兵助が部屋を去ってから一刻経っても、俺は着替えもせず、寝る準備もせず、ぼんやり座り込んだままだった。
やることもないし、話す相手もいないし。時間も時間だし、明日も授業あるし、さっさと寝たほうがいいとわかっているのに。
意を決して、ようやく俺は立ち上がる。布団を敷こうと思った。本当に、そう思ったんだ。だから、押入れに、向かおうと、したのに。
俺の足は、外に向かっていた。障子を開いて、廊下に出て、走り出していた。
くそが。くそが。ふざけんなよ。ふざけんなよ、俺は!俺はばかか!ばかなんだろうな、くそが!
そうやって脳裏でひたすら自分を罵倒しながら、俺は学園中を走り回る。もう日付も変わる時分、暗い敷地内に目を凝らして、探し回る。
外にいる確信なんてないし、そもそもいたとしても場所なんて見当もつかないし、だいたい見つけて俺は何をするんだって話だ。
でも、だって、しょうがないだろ。しょうがないだろ、しょうがないだろうが、くそが!
びっくりしたんだ。驚いたんだ。木綿子の泣き顔が、あまりにも、あんまりにも、――――かわいそうだったから。
親友の葬儀の夜、同じ悲しみを分かち合えるはずの友人の側では過ごせなくて、ひとりで泣いているのだとしたら――――――かわいそうだとおもったんだ。
誰がどの面さげてそんなこと思ってるんだよ。どれだけ木綿子を罵倒した、どれだけ木綿子に痛い思いさせた、無理やり犯そうとしたことだって、あっただろ。
ときどき本当に憎たらしくて、憎たらしくてたまらなくて、絶対に俺が痛めつけてやる、苦しめてやる、そして泣かせてやるって、本気で思ってただろ。
そのくせ、なにがかわいそう。なにが、かわいそうだよ。くそが。善人ぶってんなよ。気色悪いんだよ。
「がっ………………学園長先生の、庵の裏は、ないわ…………そりゃ、全然見つからないわけだ…………」
息切らして、そうなるまで木綿子探して、やっと木綿子見つけて、ほっとしてんじゃねえよ。
俺はなんなんだよ。俺はなにがしたいんだよ。木綿子泣かせたいんだろ、だったら、そうしろよ。
「………………わたしの泣き顔、見にきたの?」
膝抱えてうずくまって、目の周りまで腫らして泣いてる木綿子に、"そうだよ"って言えよ。
もっと酷いことだって言えるだろ。木綿子を泣かせるために、俺今まで色々、やってきただろ。
成績を馬鹿にした。痕が残るほど握り締めた。舌を本気で噛んだこともあるし、犯してやろうとしたこともある。
それこそ、"親友を殺してやろうか?"なんて、冗談交じりに脅しをかけたことだって。
それは、全部木綿子に泣いてほしかったから。木綿子を泣かせたかったから。
他の男にも見せる、ただの無関心な笑顔じゃなくて。親友に見せる、ちょっと勝気な態度でもなくて。
俺だけに見せる、何かがほしかった。だから泣かせたかった。そうしてこの子を、俺のものにしたかったんだ。
でも、もういい。もういいよ。木綿子の泣き顔は、ちょっと俺には、合わないみたいだ。辛すぎる。今だってなんだか、俺の方まで泣きそうだ。
「……違うよ。そうだったら、よかったんだけど」
「………………」
「一応、なぐさめにきた、つもり」
「…………尾浜くんが?」
「うん。俺が。笑えるよね」
俺もしゃがみこんで、木綿子に向かい合った。木綿子はぴくりとも、身じろがなかった。
涙が滑り続ける頬に触れる。ひんやり冷たい外気とは違い、そこだけ悲しいくらいに熱かった。それにも木綿子は、身じろがない。
ぽろぽろ涙を零し続ける大きな瞳で、まっすぐ俺を見つめている。俺たちはそのまましばらく無言で見詰め合って、不意に木綿子が目を伏せた。さらに涙が溢れる。
「……笑いはしないけど、驚いたかな」
「まあ、そうだろうね」
「そんなにわたし、みじめかな。……まあ、みじめに見えるかもね。ひとりでこんなところで、泣いてるんだから」
「…………違うんだよなあ。同情、してるとかじゃなくてさ」
「同情じゃないなら、なに」
「木綿子が好きだからだよ」
初めて会ったとき、木綿子のことをとても可愛いと思った。それはきっと俗に言う一目惚れで、そして俺の初恋だった。
だけどその初恋は踏み躙られた。木綿子は俺のことなんて何とも思っていなかった。他の男達と同じ、どうでもいい、何でもない存在でしかなかった。
それが俺は、許せなかった。自棄になって、意固地になって、木綿子を傷つけることに躍起になった。俺はとても傷付いたから、木綿子も同じ目に遭わせようとした。
俺が痛めつけて、俺が苦しめて、そうやって俺のせいで傷付いて、俺が泣かせてやれば。そうすれば俺を、見てくれると思った。
可愛くて、とても可愛くて、そのくせ内心強かなこの子は、そうでもしないと、俺のことなんて見てくれないと思った。
結局全部、それは俺が木綿子を好きだからだ。かわいい木綿子も、可愛いけど憎たらしい木綿子も、ぜんぶぜんぶ。
好きだから、泣かせたかった。ガキみたい。だけど好きだから、泣いてほしくない。矛盾してるなんて、俺が一番知ってるよ。
「なにそれ」
木綿子はそう呟くと、そのまま膝に顔を埋めてしまった。
木綿子の頬に触れていた俺の手は行き場をなくし宙を掴む。少し悩んで、俺は木綿子を包み込むように抱きしめた。
少しだけ、一瞬、肩が震えたけど。だけど、反応はそれだけだった。やめろとも、離せとも、木綿子は何も言わなかった。
平気だと思った。大事な人が死んでも、悲しいだけで、泣いたりなんてしないと思った。
なんなら、悲しんだりもしないと思った。だって忍だもの。忍になるなんて、忍の家に生まれた時点で、わかっていたことだもの。
だから今までも平気だった。わたしはくのいちになるから、男の人にいい顔したり、言うことになんでも頷いたり、そうやって媚びていい気分にさせるなんて、平気でできた。
そうやって、男の人にはできていたから。だから、大事な人が死んでも、平気だって、感情をころせるって、思っていたのに。
だめだった。悲しかった。泣いちゃった。だけどそんな自分に、安心して、すごくばかみたい。
涙と一緒に、ぽろぽろ木綿子は言葉をこぼした。
初めて知る、木綿子の本心だった。初めて見る、木綿子の本当の姿だった。
木綿子が忍家系の生まれであること。男に対する態度は、きっとその生まれが関係していること。木綿子の強かさの由来も、そこにあること。
それを俺は、知っていたし、なんとなく予想もしていたけれど。それが正解だと、今あらためて、思い知ったけど。
嬉しさなんてなにもない。悲しみしかない。俺の腕のなかで泣いている木綿子が、かわいそうでよわい女の子だとしか、思えない。
「……ばかじゃないよ。常盤は、木綿子が泣いて、喜んでると思うよ。木綿子達のこと、大好きだっただろ、あいつ」
俺の拙い慰めの言葉を聞いて、さらに木綿子は、膝に顔を埋めた。
ほんの少しだけ、俺に寄りかかったような気がしたのは、俺の勘違いかもしれない。
その甘ったれた思い違いを払拭するかのように、俺はさらに木綿子を強く抱きしめた。
辺りにずっと人の気配はなく、月明かりの下ふたりきり。
だから誇張なく、このときだけは。俺の腕のなかで泣く、可哀想で可愛い木綿子は、俺のものだった。それが俺は嬉しくて、だけどとても、悲しかった。