ただただ木綿子を可愛いと、だいすきだと思うだけの、浮かれるような俺の初恋は終わってしまった。
代わりにやってきたのは、苦しめたい、傷つけたい、ひどいことをしたい、泣かせてやりたい。
今まで見せなかったものを俺だけに見せてほしいと願う、果たして本当に恋心と呼んでいいのか定かではない歪んだ感情だ。
とは、言っても。俺は木綿子のことを、少なくとも外見だけはそれまでと変わらず"可愛い"と思い続けていたので、"ひどいこと"はなかなかできやしなかった。
当時の俺は三年生だったので、まだまだ幼かったという面も大きいだろう。
せいぜい、木綿子の特別優秀ではない成績を詰ってみたり。ときどき手や腕を、痕が残るくらい強く握り締めてみたり、それくらいだ。
だけど少なからずそうやって、木綿子との付き合いが変わったからか、木綿子に向ける思いが、多少なりとも歪んだからか。
それまで見えなかったものが見えてきた。気付けなかったことに気付いた。
木綿子をただただ可愛いと騒いでいた俺は、文字通り色惚けしていたのかもしれない。だから今まで、それを、見落としていたのか。

東木綿子という女の子は、基本的に頼まれたことや言われたことを断らない。押しに弱い、とも言うべきか。
だからくのいちクラスでも各組必ず決めなくてはいけないという学級委員長。それを毎年、同級生から押し付けられているという。
さらには大人しい性格で、見た目だってそれに伴った可愛らしいものだ。それら全てが相まって、溌剌よりも、儚げな印象を、誰もが彼女に抱くだろう。
だけど、どうだ?時々、木綿子は牙を向くことがある。俺にではない。俺にはいつだって、何も断らないし、言い返さない。
成績をからかえば"ひどいなあ"と困ったように笑うだけ。痛みを与えてやれば"痛いよ"と眉を下げるだけ。ただ、それだけ。
しかし木綿子は、いつも行動を共にしている友人。その五人に対しては、時々、本当にたまにだけど、牙を向いているようだった。

"これ、木下先生に届けるようにシナ先生から頼まれたんだけど"。
"私達はあまりい組に関わりないから、教室には近寄りがたいねえ"、"じゃあ凪でいいんじゃない?い組には久々知くんいるし"、"そうだね、久々知くんいるし"。
こんな風に、面倒ごとが降りかかれば他の子に混じって別の誰かに押し付けたりすることがあった。
"木綿子ー。明日の授業の化粧、いつものように頼むよ!"、"いい加減、だめです。たまには自分でやらないと"。
こんな風に、頼まれごとに対しても意見したり、言い返したりすることがあった。
そんな光景を、ときどき、だけど確かに、俺は目にしたり、耳にしたりしていたのだ。
それは、心を、開いているからだろうか。木綿子とその友人たちは、本当に仲が良いようだから。
心を開いている相手になら、木綿子だって強気になれることが、あるのだろうか。
じゃあ、他の人間には、遠慮している?萎縮している?だから強気になれない?押しに弱くて、頷くことしかできない?
友人以外の人間には、それこそ俺に対して、木綿子は気後れしているというのだろうか。
――――そうではない、気がした。
そうではない。そうじゃない。俺に対しても、あの男に対しても、きっとそうだった。
友人たちにだけ、牙を向けるのは。それこそ友人たちが、木綿子にとって特別だからだろう。
それは、きっと正しい。だけど他の人間に、俺に対して、何も言わないのは、抵抗しないのは、受諾しか、しないのは。
どうでもいいからだろ。どうでもいいって、思ってるからだろ。どうでもいい相手だから、ただ適当に頷いて、押されている、だけなんだろ。
初めて出会ったときから変わらない、俺に向ける、小さな笑顔。近頃よく見せてくれるようになった、俺に向ける、痛みや苦しみに耐える顔。
四年生になってからは、戯れのように交わすようになった、口付けの際だって。
木綿子に恐怖なんてないよ。木綿子のかわいい、瞳の奥に。俺への遠慮も、萎縮も。勿論、愛情だって、何もないよ。
本当に何もないよ。俺に向けられている感情なんて、何もないんだ。

よくよく思い返せば、木綿子のそういった面は、俺に対して、男に対して、顕著に目立っていた。
俺に対して、いつだって木綿子は笑っていた。頷いていた。受諾していた。そうやっていつも俺を喜ばせて、いい気分にさせていた。
そしてそれは、あの男にだって同じだ。あの男以外の奴にも、きっと、同じ。
実習でも、男に声をかけることを、男と接することを、男に媚を売ることを。そういった課題を、一度として木綿子が躊躇うそぶりを見せたことはない。
木綿子は一年生の頃からくのいち志望だった。忍家系の生まれだと、実家について答えてもらったのも、一年生の頃のこと。
忍術については子供の頃から実家で多少なりとも学んでいたと聞いたのも、記憶に古い。
それならば、くのいちというものを、木綿子は知っていたのかもしれない。一年生の頃から、それよりも、ずっと前から。
男というものを、木綿子は知っていたのかもしれない。男の扱いというものを、心得て、学んでいて、そして日頃から実践していたのかもしれない。
だから俺に対して、男に対して、いつも笑って、頷いて、受諾して、"可愛い"だけだった。
そう意識して、木綿子を観察してみれば。おそろしいくらい、木綿子は可愛かった。男にとって、とても"かわいかった"。

もしも本当に、俺のこの推察が合っているのならば。木綿子の言動行動が、全て意図されていることならば、木綿子は成績はともかく、なかなかにくのいちに向いている。
だって俺は、騙されたよ。ほだされたよ。お前の可愛い顔に、お前の肯定の言葉に、お前のなんでも受諾する態度に、簡単に、落ちた。
どうせあの男もそうだったんだろ。可哀想な奴。それに気付かないで、その気になって告白して、俺に邪魔されちゃってさ。
だけどそれなら、俺は可哀想を通り越して滑稽かもしれない。だって、木綿子がそういう奴だって、気付いたのに。
可愛い顔して、可愛い仕草して、可愛い表情して。そのくせ友人以外、俺のことなんて、何とも思わない、ひどい女だって気付いたのに。
それなのに、木綿子のことを、どうでもいいやと思えない。ときどき憎たらしく思うくせに、心の底から嫌えない。
あまりにも幼稚で純すぎた初恋を、踏み躙られたからだろうか。だから俺は、意地になってしまっているのか。
木綿子を痛めつけて、苦しめて、そうやって憂さ晴らしをしているのだろうか。
そのくせ、俺は木綿子の友人たちのように、木綿子の特別になりたいのだろうか。だからまだ、木綿子を可愛いと思って、嫌いになりきることができない?
そう気付いたときには、なれるわけがないのになと、我ながら自嘲した。いっそのことただの憂さ晴らしの方が、よほど健全だとすら思った。
もしも、木綿子のことが好きなら。まだ、多少なりとも、木綿子のことを純粋に想っている気持ちがあるのなら。
俺の行動言動は、あまりにも矛盾していて、そして度が過ぎていた。それくらい、俺は木綿子のことを、苦しめ傷つけることに、躍起になっていた。


そんな風に、木綿子へのいびつな思いを抱えるさなか。
四年生の夏の、長期休暇明け。久しぶりに会った木綿子に対し、俺はとある変化を感じ取った。
自分でも、気持ち悪いと思う。こじらせていると思う。考えすぎ、深読みしすぎだとも思った、だけど。

「木綿子、なんかちょっと…………大人っぽくなったんじゃない?」

可愛い。かわいいかわいい、それまで見た目だけに関しては、本当に"可愛い"だけだった木綿子が、"可愛い"だけではなくなった気がした。
上手く、言えないけど。可愛いのなかに、何か別のものが混じっていた。あまり良いものではない何かに、木綿子が侵されている気がした。
そんなもの、と。気のせいだと、何の根拠もないと、笑い飛ばしてしまいたかったのに。
特に他意なく触れた、木綿子の肩。俺に触れられた瞬間、木綿子はびくりと強張ったから。
大きな瞳を揺るがせて、だけどすぐに伏せて、まるで自分を落ち着かせるように、ひとつ息を吐いたから。
そうやって俺に対して、男に対して、戸惑いを見せる木綿子は初めてだった。
その姿は、"可愛い女の子"ではなかった。俺の知らない、"おんな"の姿だった。

「…………わたしも、もう十三歳だからね」

木綿子のその声は、少し震えていた。伏せた瞳は、わずかに濡れて、艶めいていた。
どれもが俺の知っている木綿子ではなかった。俺は木綿子のことなんて、その本性なんて、何も知らない。木綿子が見せてくれない、だけど。
ああ、本当に、木綿子はもう可愛いだけの女の子ではなくなったのだと、俺は悟ったのだ。
女の子ではなくなった。男を知ってしまったのだと。俺は、不確かで、だけど妙に確信めいた考えが、過ぎったのだ。

自分でも、気持ち悪いと思う。こじらせていると思う。考えすぎ、深読みしすぎだとも思った、だけど。
わからないだろうね。木綿子には、わからないだろうね。なんで、俺が、こう考えるか、気付いたのか。木綿子には、わからないだろうね。
ずっとお前のこと見てるからだよ。ずっと、お前のこと。欠片も逃さないように、見ていたから、なんとなく、わかるんだよ。
お前のこと、やっぱり、――――好きだから。好きな女相手には、男ってそういうの目敏く、気付いちゃうんだよ。
木綿子には、わからないだろうな。何をどうして、木綿子が男を知ったのか、そこまでは、俺もわからないけど。
どうせ、その男に対しても。お前は何も思ってなかったんだろ。思わなかったんだろ。思わないで、くれよ。

せめて、そうであってほしかった。
どうせ女の子を捨てる瞬間、欠片も俺のことなんて、思ってくれなかっただろうから。
だけどそれならせめて、何も思っていないでほしかった。
木綿子にとって男なんて、俺も含めて全員、どうでもいい存在で、ただくのいちとして相手をするだけの存在であってほしかった。
木綿子にとって特別な男なんて、いないでほしかった。
俺がその特別になりたい、なんて。もうそんなガキみたいなこと、言わないから。
せめて誰のものにもならないでほしかった。だけどやっぱり、可愛くて、でもそれだけじゃない憎たらしいこの子を、どうしても俺のものにしたかったんだ。