そのとき俺は、生まれて初めて女の子に可愛いと見惚れ、生まれて初めて誰かを自分のものにしたいと思ったのだ。
俺と木綿子が初めて顔を合わせたのは、忍術学園に入学してそう月日の経たない、一年生の春。学級委員長委員会での顔合わせだった。
後に本人から聞いた話によると、押し付けられる形でくのいち教室一年ろ組の学級委員長になり、くのたまの委員会決めのくじ引きで自ら学級委員長委員会を引いてしまったそうだ。
俺としては、木綿子に学級委員長を押し付けた木綿子の同級生達に感謝したいし、そのときの木綿子の運の悪さも褒め称えたいと思う。
だってそれで、俺と木綿子は出会えたからだ。顔合わせの場に指定された、学園長先生の庵。一番乗りは俺で、次が鉢屋。そして三番目に訪れたのが、木綿子だった。
そろそろと障子が開き、その隙間から顔を覗かせた女の子。緊張からか顔を強張らせて、眉を少し下げた、どこか情けない表情の女の子。
その姿を見て、俺は瞬時に思ったのだ。かわいい。すごく、かわいい。ほんとうに、すごく、かわいい、と。
ぱっちり大きなまるい瞳、それとお揃いの艶ある黒色のさらさらした髪。ほっぺただけが桃色の、白い肌。
かわいい。すごくかわいい。すっごくかわいい。俺は馬鹿みたいに繰り返しそんなことを思いながら、おそるおそるといった様子で部屋に入ってくるその子を眺めていた。
俺と鉢屋はそのとき向かい合わせになって座っていたのだけど、なんと。なんとだ。俺が眺め続けていた女の子はなんと、鉢屋の隣に座ってしまったのだ。
なんでだよ、と思った。その頃の鉢屋はまだ雷蔵の変装はせず日替わりで冗談みたいな面をつけていた時期で、その日なんてひょっとこだ。
まだ大して親しくもなかったけれど、"ろ組の鉢屋三郎"がひどい悪戯小僧だということくらいは、当時の俺でも知っていた。
なんでそんな、ひょっとこの面つけた、悪がきの隣に座るんだよ。絶対、ありえないだろ。ありえない。なんでだよ。
このように、のっけから出鼻をくじかれたからだろうか。だから俺は、なおさらこう、思ってしまったのだろうか。
「ねえ、俺の隣おいでよ」
可愛いこの子と仲良くなりたい。可愛いこの子を、自分のものにしたい、と。
……ちなみに弁明させてもらうと、当時の俺はいくら俺といってもまだ十歳。
"可愛い女の子と仲良くなりたい"だなんて、そりゃあ多少の下心はあれど、まだまだ可愛らしい想いだった。
"自分のものにしたい"だって、仲良くなりたい気持ちの延長だ。鉢屋の方に行ってほしくない、俺の隣にきてほしい。そんな可愛い、嫉妬心。当時は、まだ。
「………………うん、お邪魔します」
そう言って、素直に俺の隣に移動してくるその子が可愛かった。
俺が先に名乗り、名前を尋ねたら素直に答えてくれる彼女が可愛かった。
"木綿子って呼んでいい?"と、初対面にも関わらず聞いた俺に、"いいよ"と頷く木綿子が、本当に可愛かった。
そんな風に、俺は可愛い可愛い"東木綿子"という女の子と仲良くなりたくて必死で、持ち前の社交性と積極性を活かしてどんどん距離を詰めていった。
木綿子も木綿子で、そんな俺にたまに困ったり、ほんの少し照れた様子を見せつつも、基本的にいつだって"いいよ"と笑っていた。
一年生の夏には、委員会以外でもよく話をするようになっていた。
一年生の冬には、初めて二人きりで街に出かけた。
二年生の春には、また木綿子が学級委員長委員会に入ったので、嬉しかった。
二年生の秋には、忍たまとくのたまの合同授業があれば、声をかけずとも自然と一緒に組むようになっていた。
二年生の冬には、"また木綿子が学級委員長委員会に入ったら嬉しいな"と話して、木綿子も"ありがとう"と少し照れながら笑った。
三年生の春、俺の望んだとおりまた木綿子が学級委員長委員になり、"運命みたいだね"なんて俺がくさい台詞を吐けば、木綿子は少し困ったように"そうかもね"と笑った。
相変わらず、出会った頃から変わらず、木綿子は可愛くて、本当に可愛くて、俺にとって、一番の可愛い女の子で。
木綿子と一緒にいると楽しかった。俺の言葉になんでも頷いて笑ってくれるその姿が、本当に嬉しかった。
だけど、ここまでだった。木綿子がただただ、俺にとって"可愛い女の子"であったのは、三年生の夏までの話だ。
それは特に暑い、ある夏の日のことだった。炎天下の放課後、さっさと長屋へ戻ろうと足を進めていると、運動場の隅に見知った姿を見かけた。
さらさらの黒髪だった。木綿子の可愛い、後姿だった。木綿子がいるなら、そこに行こう、声をかけよう。当然のように、俺はそちらへ向かった。
だけど木綿子は一人でいたわけではなかった。俺からは長らく死角になっていた場所にもうひとりいて、その相手と何か話しているようだった。
木綿子と一緒にいたのは、男だった。組も違うので、俺とはそう親しくはないけど、確かに俺と同学年の、忍たまだった。
へらへらしまりのない顔で木綿子と向き合って、そいつに木綿子は笑ってる。笑いかけている。
その、笑顔が。その、男に向ける笑顔が。いつだって俺に向けてくれている、俺が大好きな"可愛い笑顔"と、まったく寸分違わず同じように見えて。
一瞬、暑さを忘れた。芯が冷えた気がした。思わず、近くの茂みに身を潜めて、二人の会話に耳を傾ける。
"木綿子ちゃん、体調は崩してない?"、"大丈夫だよ、ありがとう"。
"暑さがやわらいだら、またどこか出かけようよ"、"いいよ"。
"……ねえ、木綿子ちゃん。気付いてると思うけど、おれ、きみのこと好きなんだ"、"…………そうなの?"。
"そうなんだよ。ねえ、おれと付き合ってくれない?"。
男からの告白に、木綿子はさほど大きく狼狽しなかった。
それから大して間もおかず、返事をしようと木綿子の唇が動く。そこから紡がれる言葉が、きっと、
「だめだよー。木綿子は俺と付き合ってるんですー」
"いいよ"と、受諾の言葉であろうことが分かってしまったので、気付けばそうやって二人の間に割り込んで邪魔をしていたのだ。
俺もそれなりに動揺していたので、どうやってその男を追い払ったか覚えていない。
だけど、さほど木綿子に強い思い入れもなかったのかどうか。男がさっさと早々に立ち去ったことだけは覚えている。
木綿子と二人きりになっても、俺は木綿子の方を向けずにいた。意味もなく、男が去った方を見つめて、そこを睨んでいた。
「わたしと尾浜くんって、付き合ってたの?」
だけど、いつもと変わらない調子の、小さく高い、可愛い声で、そんなことを言われてしまえば。
俺は振り向くしかない。少しだけ下にある木綿子の顔を、見下ろすしかない。きっと怒りを隠しきれていないだろう、不恰好な笑みを浮かべながら。
そんな俺に対して、木綿子はきょとんと疑問に満ちた表情。その表情は、可愛い。木綿子はいつだって可愛い。どんな顔をしていたって、可愛かった。
だけど、どうしてだろう。今は、可愛くない。もう、可愛くない。可愛いだけ、じゃない。
だってそれは、この表情は。俺のものではなかったからだ。さっきの男にも、きっとずっと、見せていたものだからだ。
「うん。付き合おうよ」
俺だけじゃなかったんだ。名前で呼ばせるのも、街に遊びに行くのも、木綿子のこと可愛いって思ってるのも、全部。
俺だけじゃなかったんだ。俺に向ける笑顔も、俺にくれる受諾の言葉も、困った表情も、少し照れた表情も、全部全部、俺だけのものじゃなかったんだ。
俺だけじゃなかったんだ。俺じゃなくてもいいんだ。あいつでもいいんだ。誰でも、いいんだ?
それってなんて、なんて惨めでそして、憎たらしいことだろう?
「さっきの奴にも、いいよって答えるつもりだったんだろ?」
「…………それは、まあ、そうだね。そのつもりだったかな」
「じゃあ、俺とも付き合えるよね?それとも、あいつが本命なの?」
「本命……なんて、いないよ」
相変わらず、周りは暑いというのに。鬱陶しいくらい、太陽が照っているというのに。
俺はどんどん冷えていく。どんどん、冷えて、曲がって、歪んでいく。それがいやというほど、自分の内で分かる。
かわいかった、のになあ。本当に。かわいくて、だいすきだったのに。木綿子のこと、本当に。
それなのに、今は全然違う。その、気持ちが、全くないわけじゃないけど。全部なくなったわけじゃ、ないけど。
なんだかもう、違うんだ。別のものが混じって、邪魔をする。かわいいこの子が、どうにもこうにも、許せない。許すものか。ふざけんな。
「じゃあ、俺と付き合ってよ」
そう言いながら、木綿子の右手を握った。初めてのことではなかったけど、思い切り、潰すように握り締めるのは、それが初めてだった。
抗議の声はあげないものの、木綿子は目を瞑った。眉間に皺を寄せた。ひゅっと、小さな吐息が、唇から零れる。
そんな、木綿子の姿は、初めてだった。木綿子はいつだって笑って、困って、照れていたから。ただ、それだけだったから。
こんな風に、痛がったり、苦しそうな木綿子は初めて見た。それがとても、俺は嬉しかったんだ。
木綿子のその表情だけが、そのとき冷え切った俺の心を、あたためてくれたんだ。
「…………いい、よ」
だから、もっと、見たいと思った。木綿子が痛がってる姿を、木綿子が苦しんでいる姿を。
だって、今まで俺が見てきた可愛いだけの木綿子は、あいつにだって、他の男にだって、見せていたんだろ。
それならもう、いらないよ。そんなものもう、見たくないよ。他の奴にくれてやるよ。
木綿子は本当に可愛いから。どうせ今まで、可愛がってもらうばかりだったんだろ。今までの俺がしてきたみたいに。
それならもう、いいよ。他のものを見せてよ。他のものが見たいよ。俺だけが見られるものを、見せてほしいよ。
そうやって、"いいよ"なんて、言えなくなるくらい。笑ってなんていられなくなるくらい。おまえにひどいことをしてやりたいって、思ったんだ。
それまでの木綿子に向ける想いは、俺にしてはあまりにも可愛すぎる、純真なものだった。
だからこうやって、簡単に歪んでしまった。歪んで、それまで以上に、怨みにも似た恋情を、木綿子に向けるようになったのだ。