身体、お医者さまによると特に心の臓が弱く生まれつきました。
なので同じ街に住む同年代のこどもたちと外を駆けまわって遊ぶこともなく、ひとり部屋で本を読んだり、お手玉やあやとりをする幼少期を過ごしていました。
家業同士、親同士が仲良くしている縁もあり、ときおり訪れてくれるふたりのきょうだいだけが、私の友人でした。
もっともあちらは、私を哀れに思った両親に頼まれて相手をしてくれただけでしょうけれど、それでも私にとっては彼らは大切な友人でした。
いいえ。言葉が過ぎました。そのきょうだいは、兄も弟もとてもやさしいひとたちなので、ふたりも私のことを友人と思ってくれていたことでしょう。
そんなふたりの友人との関係に少しだけひずみが入ったのは、私が十を数える春の直前のことでした。

「晶が春から体力作りのために、行儀見習いとして学校に通いますの。全寮制の学校ですから、ご挨拶に」

老舗の扇子店・小松田屋に母とともに訪れると、小松田屋の女将さまと、ふたりのきょうだいがお出迎えしてくれました。
母が持参したお菓子をみんなで食べ、淹れていただいたお茶を飲みながら雑談もそこそこに母は本題を切り出すと、私にも頭を下げるよう促します。
深々と頭を下げると、胸が圧迫されて少しだけ息苦しくなりました。とんとんと母が背中を叩いてくれたのでそれを合図に頭を上げると、女将さまの優しい瞳と目が合います。

「まあまあ、晶ちゃんが学校に。しかもおうちを離れて。そんなによくなったのねえ」
「校医の方も常時いらっしゃるようなので、それが決め手でしたの」
「それなら安心ですわね。晶ちゃんが行ってしまうのは寂しいけれど、学校での生活、どうか楽しんで」

その言葉とともに一等優しい笑みを向けられて妙に気恥ずかしくなってしまい、私は"はい"と返すだけで精いっぱいでした。ああ、なんて気の利かない。
先ほど母も言ったとおり、私は春から忍術学園という学校に入学します。
主に体力作りのためですが、他にも立派な女性になるために色々と学べるとのことなので、こういったときに上手く返せるように一生懸命勉強したいと改めて思いました。
けれど、今へたくそな返事をしてしまったのは本当のことなので、私はなにか誤魔化すかのようにお茶をひとくちいただきます。
お菓子の方には、まだ手をつけていませんでした。今日はこうやって外出できるくらいに体調は良い方ですが、食欲はいつもどおりさほどありませんでした。

「晶の体調によっては今日がお会いできる最後の日になると思いましたので、急ですがこうやってお邪魔させていただきました」
「そうでしたのね、ご丁寧にありがとうございます。寂しくなるわね、優作、秀作」
「そうだね」
「晶ちゃん、お菓子食べないならぼくが食べていい?」

女将さまが呼んだ"優作"、"秀作"とは、誰でもないわたしのたったふたりの友人のきょうだいの名前でした。
"からだに気を付けて"と小さく笑いかけてくれるのは、お兄さんの方の優作くん。
私の返事も聞かずに、私のお菓子を手にとってしまったのは、弟さんの方の秀作くん。
このように性格が全然違うきょうだいだけれど、私はふたりとも大好きでした。

「こら、秀作!晶ちゃんに返しなさい!」
「だめだよ、秀作。もっと食べたいのなら、僕のを半分あげたのに」
「お兄ちゃんももう食べちゃったじゃない。晶ちゃん、だめ?」
「ふふ。いいわよ、秀作くんにあげる」
「やったあ!」

けれど幼いながらに、私はこの二人に向ける感情にわずかな差があることに気付いていました。
手ぬぐいで秀作くんの口まわりを拭いてあげている優作くんに、そっと視線を向けます。
このふたりとでは、私は優作くんとの方が歳が近いです。優作くんは、私のひとつ上。
そして私にも下にきょうだいがいます。弟がいます。幸い、私とは違ってとても健康に生まれてくれた弟が。
そうやって、近いところがあるからでしょうか。同じところがあるからでしょうか。
私のなかには優作くんだけに抱いている特別な感情がわずかに、だけど確かに存在していました。

優作くんは小松田屋の長男なので、私の家、私の両親が営む紙問屋によく旦那さまと一緒に買い付けにやってきます。
いつだって利発的なその姿が、眩しく見えました。私は女児とはいえ、それにしたって家のお手伝いなんてまともにできたことがないのに。
今だってせっせと秀作くんの世話を焼く優作くんの姿が、眩しく見えます。私は弟とまともに遊んであげることもできないのです。
私はきっと、そんな優作くんが羨ましいのでしょう。あこがれてやまないのでしょう。
そしてきっと、もうこの時点で、小さな恋が湧いていたのだと思います。
吐息で消えてしまいそうな小さな恋の灯が、ぽつりと、だけど確かに、脆弱な私の心の臓のなかに。

「ごちそうさまでしたあ!美味しかった!」
「秀作、晶にちゃんとお礼を言って」
「晶ちゃんありがとう!晶ちゃんはほんとうに優しいね!だいすき!」
「どういたしまして、ありがとう」

にこにこと満面の笑みと好意の言葉を向けられたら、私までつい笑顔になってしまいます。
そんな秀作くんの隣にいる優作くん。彼も困ったように、だけど確かに笑っています。
そんなふたりが、こんなふたりが、このふたりの友人が、私は好きでした。大好きでした。優作くんへの小さな恋を差し引いても、ひととして確かに。

「じゃあ秀作くん。晶がとても元気になったら、晶をお嫁さんにもらってくれる?」

突然降って湧いた、母の言葉。それを聞いて、笑っていた私たちの笑顔が一瞬にして消えました。
秀作くんは"ほえ?"ときょとんと目を丸め。優作くんと、きっと私も、無言ながらに同じく目を丸くしていました。
この場では母だけがにこにこと、秀作くんに笑いかけています。女将さまは"あらあらまあまあ"と口元を隠してなんだか嬉しそう。

「お嫁さん?晶ちゃんが?僕の?」
「そうよ。いやかしら」
「えっとね、」
「だめです」

秀作くんのあどけない声を遮ったのは、彼のお兄さんでした。
真剣な顔をして、まじめな表情をして、優作くんは私の母を見据えています。
一瞬、ちらりと優作くんが私に視線を向けました。その強い瞳に、きゅっと心臓が痛くなりましたが、いつもの発作の前兆とは違うのは明らかでした。

「秀作には、好きな子がいるのでだめです」
「おっ、お兄ちゃん!なんで言うのさあ!」
「本当のことだろう」
「そうだけどお!」

真っ赤になりながら、秀作くんはぽかぽかと優作くんを拳で叩きます。
まったく痛くないのか、少し体を揺らすだけで表情を微動だにしない優作くん。
真剣な表情を変えず、じっと私の母を見つめたままです。かと思うと、不意に再び私に視線を向けます。
ああ、また胸が痛い。いつからでしょうか。あなたと目が合うと、私の胸に、湧くものがあるようになったのは。

「だから、僕がもらいます。晶が元気になったら、晶をお嫁さんに」

優作くんのその言葉に、隣に座る母が顔を見ずともとても驚いたのが気配でわかりました。
女将さまはさらに"あらあらあらあら"と口元を隠し、秀作くんだけが何もわかっていないのかぽかぽか優作くんを叩いたまま。
当の本人の私。私は、どうしていたでしょう。優作くんの真剣なまなざしを、その言葉を受けて、私は。
正直なところ、よく覚えていないのです。熱が出たように頭がくらくらしてしまって、胸のうちまで熱くなってしまって。
ただ、そう。"やっぱり"と思ったことだけは、覚えています。
――――やっぱり優作くんは、弟思いのいいお兄さんね、と。


後から母に聞いたのですが、秀作くんにあんなことを言ったのは少しでも私に前向きになってほしかったからだそうです。
晶は、既にお嫁に行くことを諦めきっていたから。少しだけでも可能性を見せてあげたかった。
寂しい顔でそんなことを言われてしまったら、母のことを責める気になんてなれませんでした。
けれどそれとは別に、母のそんな感傷、なにより私のからだの弱さに巻き込まれてしまった秀作くんと優作くんは迷惑だったことでしょう。
ふたりとも、女将さままで、見送りの際に"元気になって帰ってきてね"と笑って言ってくれたけれど、どこまでが本心だったのか今でもわかりません。

そうして、春を迎え、私は家を出て忍術学園に入学しました。
そこでの生活、五年間は、とても充実したものでした。なにものにも代え難い、大切な日々。
具合が悪く授業を休むことも多々あったけれど、それでもたくさんのことを学べました。
女の子の友人もつくることができたし、美味しい食事のおかげで食に対する苦手意識もだいぶ薄れました。

忍術学園には四季にひとつずつ、長期の休みがあります。
そのたび私は当然実家に帰るのですが、そうなると彼らと顔を合わせることは必然とも言えました。
彼ら、とはもちろん、かつての私の友人。私の最初の友人の、小松田屋のきょうだい。
特に、すっかり旦那様の補佐が板についた様子の優作くんは、相変わらず私の家に買い付けにやってきました。
そのたびに、彼は私に声をかけます。"体調はどうだい、学園は楽しい?、学園ではどんなことをしているのかな"、そうやっていろんなことを。
私はそれに気の利いた言葉を添えることもできず、ただただ答えるばかり。"体調は悪くないわ、学園は楽しいわ、つい先日授業で南蛮の焼き菓子を作ったのよ"。
優作くんは、つまらない顔ひとつせず聞いてくれました。それどころか、"それは羨ましい、食べてみたいな"なんて、私の料理にふれるのです。
嬉しくなってしまって、真に受けてしまって、後日本当に焼き菓子を持って行ったところ、当然彼は目を丸くして驚きました。
だけどすぐに"ありがとう、嬉しいよ"と優しく微笑むのです。そして相変わらず弟思いの彼は、焼き菓子を秀作くんと半分こして"美味しいよ"と食べてくれたのです。

そんな風に学園での生活。長期休暇は実家で過ごし、あっという間に五年が過ぎ、私は十五となり卒業の時を迎えました。
まだ桜の残る季節、私は卒業を迎えたその足で、真っ直ぐ家に帰りました。驚くことに、一度も具合が悪くなったり、休むこともなく。
学園と私の家がある街は比較的近い場所にあるので、自慢することではありません。けれど一年生の頃なんて、母に迎えにきてもらっていたくらいでした。
些細なことだけど、確かな成長をこの身に感じ、少しだけ達成感にひたって部屋で休んでいたところ、私に来客が訪れます。
優作くんでした。私が帰ってくるのを、待っていたとのことでした。具合がいいのなら、少し一緒に歩かないかと誘われました。
少しばかりまだ帰路の疲れは残っていましたが、断るには至りませんでした。
彼は私の歩調に合わせ、ゆっくり隣を歩いてくれます。
そういえば、私たちはお互いの家で遊ぶばかり、会うばかりで、こうやって一緒に歩くのは初めてのことだと今更気付きました。

優作くんに案内される形でたどり着いたのは、街から出て少し歩いた場所にある原っぱでした。
家族と出かける際に何度か通りがかったことはありますが、こうやってまじまじと眺めるのは初めてでした。
"街の子供たちの遊び場なんだよ"と、優作くんは教えてくれます。今はこどもひとりいませんが、確かに、広くて、障害物もなにもなくて、遊ぶには恰好の場所だと思いました。
私はもちろん、ここで遊んだことはありません。走り回ったことはおろか、咲く花々を摘むことすら、子供の頃はできませんでした。
今なら、できるかしら。子供の頃にできなかったことを。
もちろん、走り回りはしません。ただ少し、童心に返って、目の前に咲く名もない花々に触れてみたいと思ったのです。
そうやってしゃがみ込もうとしたところ、先ほどの疲れが出てしまったのか。私はつい、よろけました。

「おっと」

そんな私を、肩をぐいと掴んで引いて助けてくれたのは、誰でもない優作くんでした。
痛くはないけれど、強い力でした。私が体を預けるその胸は、ひろくたくましく、私とは全く違いました。
心の臓のうちに、恋が湧きます。子供の頃から消えることのないその灯は、いまや随分と大きなものになってしまった気がします。

「ありがとう、優作く、」

お礼を言うため彼を見上げると、顔に影がかかりました。
ああ、ちょうど優作くんが太陽を遮っているのね。これでは優作くんの顔がよく見えないわ。
そう思ったのもつかの間、私の言葉も遮られました。それが何か、最初はわかりませんでした。
ただ、目の前に、本当に目の前に、優作くんの顔と、唇に柔らかいものが触れているのだから、それが彼との口づけだとわかりました。

「…………………………どうして?」

唇が離れて、優作くんが離れて、軽く抱きしめられた状態はそのままに、私は心からの疑問を尋ねました。
どうして口付けるの。どうして私に口付けるの。どうしてあなたが私に、口付けるの?
優作くんは、真剣な表情で私を見つめています。普段、優作くんは温和な表情を浮かべているので、そんな顔は珍しいのです。
だけど私は、その表情を知っていました。見覚えがありました。もっと幼い頃、もっと彼があどけなかった頃、だけど確かに。

――――だから、僕がもらいます。晶が元気になったら、晶をお嫁さんに。

その言葉を、あの瞬間を、忘れていたわけではありません。忘れられるわけがありません。
学園生活で倒れ、息苦しい布団のなかで、何度その言葉を、あの光景を思い出して、励みにしたことか。
だけどそれは、私だけのものだと思っていました。私だけが、想っているものだと信じていました。
だってただの口約束でしたから。互いの母親も、"まあまあ"と笑うだけの、本当に軽い口約束だと。
さあと、血の気が引きます。自分の愚かさを思い知ります。このひとがそんな薄情な性分ではないと、知っていたくせに。

「…………だ、だめよ、優作くん」
「どうして?学園で男でもできたのかい。ひどいな」
「そ、そんなわけないでしょう、私は」

"ずっとあなたが好きだった"、つい出てしまいそうになった本音を、慌てて飲み込みます。
目の前のそれを優作くんが見逃すはずもなく、"どうしたの"と彼は続きを促しますが、私は首を振りました。
すると彼は、空いた左手で私の頬を撫でました。"言ってごらん"と、ずいぶん低くなった声で、もう一度促されたら、もうだめでした。

「…………私は、ずっと、あなたが好きだった」
「そう。ふふ、嬉しいな」
「で、でもそうよ。優作くんはそうじゃないもの、だから」
「いつ私が、晶を好きではないと言ったのかな」
「だ、だって」

"わかっているよ"と、優作くんはまた私の言葉を遮ります。今度は唇ではなく、その声で。
そしてさらにその低音で語りかけます。まるできかない幼い子供に言い聞かせるような、ゆったりとした口調で。

「確かに最初は秀作のためだったさ。秀作には好きな子がいたから、晶と結婚させるわけにはいかないと思った」
「…………ええ」
「だけど、晶のことをなんとも思っていないわけではなかったよ。そりゃあ私もまだ子供だったから、恋慕ではなかったかもしれないけれど」
「…………」
「子供ながらに、おまえのことを想っていた。今日は元気だろうか、いつかこの原っぱで一緒に遊びたい、ああ、笑うと可愛いなと」
「…………うそ」
「どうして嘘を吐く必要があるんだい」
「…………」
「おまえが学園に行ってからは、本当に参ったよ。毎度毎度、綺麗になって帰ってくるものだから」
「…………そんなこと」
「料理を作ってくれたり、花を活けてくれたり、琴をひいてくれたり。どんどん、立派な女性になっていくものだから」
「…………だから、そんなこと」
「惹かれないわけがない。おまえが好きだよ、晶」

そう言い切ると、優作くんは私をぎゅうと強く、だけど優しく両腕で抱きしめました。
私は驚愕で頭がいっぱい。思いもよらない優作くんからの言葉の数々に、理解が追い付きませんでした。
だけど、知っています。これだけは知っています。
優作くんが、うそでこんなことを言うひとではないと。私の心を、もてあそぶようなひとではないと。
だから私はわかっていました。いまだ、驚きでまともに働かない頭のなか、だけどそれだけは、確かに。
私はこの人を抱き返してはいけないと、それだけはわかっていました。だから私の腕は、ぴくりとも動かないのです。

「……………………だめよ、優作くん」
「どうして?」
「わたし、げんきに、」

"なっていないもの"、最後の方はこみ上げるものがあって掠れてしまいましたが、きっと優作くんには聞こえていたことでしょう。
その証拠に、優作くんは小さく、だけど長く息を吐きました。もしかしたら彼も、薄々気付いていたのかもしれません。
彼は昔から本当にまじめで、利発的なひとでしたから。

私は忍術学園に、体力作りのために入学しました。
五年間の学園生活で、入学した十歳の頃よりも随分と、からだは元気になったと思います。
そうそれこそ、一度も休まず、具合が悪くなることもなく、近いとは言え学園から実家に帰ることができるくらいには。
だけど、そう。悪すぎました。私は元が、悪すぎたのです。
だからきっと私が五年間で手に入れられた体力なんて、きっとささやかなもの。

「………………どれくらい?」
「こども、難しいって…………」
「…………そう」
「私が死ぬだけなら、いいの。でも、こどもも…………難しいかもしれないって」
「そんな悲しいこと言うものじゃないよ」
「そもそも、そういうことが、難しいかもって…………いやでも心臓に、負担かかるからって」
「…………そうか」

私ははっきりと言い切りません。主語をぼかして、誤魔化して、ずるい言い回しをしています。
だけど優作くんにはしっかり伝わっているようで、それがありがたくも、勝手に悲しくなります。ああ、やはり彼もわかっていたのだと。

男の人と愛し合うことは、心臓に負担がかかるので難しいです。
万が一それができても、子供を産むことなんて、母子ともども死んでしまう可能性が高いそうです。
卒業の直前、五年間丁寧に私を看てくださった校医の先生に、そう言われました。
それが、元気になったと言えるでしょうか。
言えるわけがない。言えるわけがないのです。
少なくとも、長男で跡取りの優作くんのお嫁さんになるに足りていないのは、明らかでした。

――――ああ、そうか。私はいまさら、気付くのです。
だから母はあのとき、秀作くんの方に声をかけたのだと。
たとえ口約束、その場だけの笑い話になるのだとしても、長男の優作くんには、とても頼めたことではないからと。



そんな原っぱでの優作くんとの抱擁から、三年が経ちました。
私は相変わらず、実家にいます。店番や弟の面倒を見られるくらいには元気になったので、昔と比べるとずいぶんと家の手伝いができるようになりました。
十八と、適齢期ではありますが、父も母も結婚の話を持ってはきません。
当然です。両親は私の身体のことを、元気にはなれなかったことを知っています。
"ずっと家にいていい"と、震えた声と身体で母に抱きしめられ、そんな私たちを父がさらに抱きしめてくれたかつての日を、今でも思い出します。

「結婚しよう、晶」

だというのに、これはなんでしょう。私に向けられた言葉、この光景は、なんでしょう。
三年前と同じでした。優作くんがお店に来たので、ああまた買い付けにきたのかしらと思っていたところ、彼は私を呼び出しました。
私の歩調に合わせてゆっくりと歩き、あの原っぱまで案内してくれたのも、まるでまるで三年前と同じでした。
あれから私たちは、まったく会わなくなったわけではありません。同じ街に住んでいますし、小松田屋は我が家のお得意さんなのですから。
だけどふたりきりになるのは、あの抱擁から初めてのことでした。
ふたりきりで言葉を交わすのももちろん初めてで、私を呼び出してからずっと黙っていた優作くんが放った第一声がこれだなんて、誰が予想できるでしょう。
原っぱに座り込んで、私たちは隣り合っています。時間帯のせいなのか、今日も子供はひとりもいませんでした。

「………………元気には、なっていないわ。きっと、これからも」

驚きと戸惑い冷めやらぬなか、どうにか私は返答の言葉を絞り出しました。
三年。あれから三年経ちました。優作くんとの抱擁、私の身体の具合を伝えてから三年。
私の身体の改善はそこで限界を迎えたのか、三年前から悪化はせずとも良くもなっていません。
だからそれを伝えます。優作くんは少し目を見開いたのち、困ったように笑いました。

「知っているよ」
「そう」
「秀作にね、子供ができたんだ」
「えっ」

思わず素っ頓狂な声が出てしまったけれど、別に驚くことでもないのにとすぐに我に返りました。
秀作くんは数年前、お兄さんである優作くんよりも早く結婚をしました。
その相手が、かつての"秀作には、好きな子がいるのでだめです"の好きな子なのだから、なんて素敵な話だろうと今でも思います。
そんな秀作くんに、こどもができたのこと。結婚しているのだから、お嫁さんがいるのだから、それはとても自然なことです。
"おめでとうございます"と、頭を下げました。優作くんは"ありがとう"とそれはそれは嬉しそう。相変わらず、彼は弟思いのお兄さんです。

「その子が男の子だったら、後継ぎにしようと思っているんだ」
「…………え?」
「秀作も、秀作のお嫁さんも、両親も、承諾してくれている。だから」

嬉しそうな表情から一転して、優作くんはとても真剣な表情になります。
この表情を、私は知っていました。三年前も、かつてのこどもの日も、優作くんはこの表情で私を見つめてくれたから。
優作くんはいったん言葉を区切ると、そっと両手で私の右手をとりました。その指先は、恭しく私の甲を撫でます。

「大丈夫だよ、晶。結婚しよう」

その言葉、その表情に、惑わされそうになりました。
本当に、大丈夫なのだと思いました。何も、私たちの間に問題などないのだと。
そんなわけがないのに。そんなはずがないのに。この脆弱な体の持ち主である私が、一番知っています。

「私も、男だから。…………色々と覚悟を決めるのに、三年もかかってしまったけれど」
「…………だめよ、優作くん」
「他に好い男ができた?」
「そんなわけないでしょう」

ここで、"そうだ"と嘘をつけないのが、私の弱さであり狡さなのかもしれません。
あからさまな嘘でも、他に好きな人ができたと言えば、優作くんは退いてくれるかもしれないのに。
だけど、口先だけでも、不貞を働きたくないと。そんな風に、彼の恋人でもないのに勝手に思ってしまう私は、本当にずるい。
私は彼のなにもでもない。彼も私のなにものでもない。かつてほんの少し結婚の口約束をしただけの、もはやきっと友人ですらなくなってしまったひと。

「私は子供を産めないばかりか、きっとあなたのからだの熱を慰めることもできない」
「うん」
「そもそもこの身体が、心臓が、あと十年持つかどうかも怪しいわ」
「うん」
「そんな女をわざわざ娶って、あなたに傷をつくる必要はない」
「傷とは、お前を亡くす悲しみのこと?それとも私の経歴?」
「…………どちらも」

優作くんは、優しい人です。そんなこともう、充分すぎるくらいわかっています。
だからたとえ、彼にとって恋人でもなにものでもない私が遠くない未来死んだとしても、その死を悼んでくれるのだと知っています。
私は、それだけで充分です。身に余る光栄です。こんなろくに使えぬ身体に、有り余るほどの。
だからわざわざ、たった一度しかない初婚という輝かしいものを、私なんかの死で汚す必要なんてないのです。
そりゃあ優作くんは素敵なひとだから、たとえ一度結婚の経歴があったとしても、その後も引く手あまたでしょう。
だからといって、その美しいあなたの人生に、私の恋慕の焦げ跡がつくなんて、そんな理不尽なことはする必要はないの。

「その傷がほしいんだよ、晶」

私の右手を握る力が、わずかに込められました。痛くはありません。きっと、充分に加減して触れてくれているのでしょう。
優作くんの瞳の熱も、わずかに強くなった気がします。ただでさえ、逸らせなかったのに。今はもはや、吸い込まれてしまいそう。
ああ、またもや私は身勝手なことを思ってしまいました。もしもこの瞳に見つめられて死ぬことができたら、きっと幸せだろうと、本当に勝手なことを。

「おまえが、いつ死んでしまうかもわからないその身だからこそ」
「…………」
「今すぐにでも、お前の夫になりたい。そうすれば、たとえお前が明日死んでしまったとしても」
「………………」
「私はお前のやもめになれる。生涯、お前の男になれる」

"だから、私と結婚してくれ"、そう言い切って、優作くんは私をかの日のように抱きしめました。
柔らかい抱擁を受けながら、思わず私は涙がこぼれました。あまりにも優しい彼の言葉に、あまりにも美しい彼の恋慕に、眩暈すらしました。

ねえ、優作くん。私だって、まだ心から受け入れられていないのよ。
きっと十年持たない心臓と、毎日生きていくこと。いつ死んでしまうかわからない身体を、抱えていること。
私ですら受け入れられないこの現実を、こんなにもやさしく優作くんは抱きしめてくれるなんて。
それどころか、その先の未来すら、私が死んだ後のことすら、考えてくれているなんて。
どうしてこんな人が、ここまで私を好いてくれるのかしら。
いくら考えてもわからない。いくら考えても、理解できない。
だけど優作くんはそう尋ねれば、ひとつひとつゆっくり教えてくれるのでしょうね。
それでもきっと、私は理解なんてできないのでしょうけれど。
だけど嬉しいのは確かだわ。優作くんのことが好きなのは、確かなことだわ。
もう私の恋慕の灯は、ちょっとやそっとじゃ消えないくらい湧いてしまったの。
────ああ、どうかこの灯がいやでも消えてしまうその日まで、どうか付き合って。

「…………やもめになんて、ならなくていいの。私が死ぬまで、一緒にいてくれたら」

そう呟いて、三年越しに私は優作くんを抱き返しました。
それは本心でした。心からの言葉でした。心からの私の願いで我が侭で、全てでした。
優作くんはそれに何も言わず、ただただ私もっと強く、優しく、抱きしめてくれました。


その後はとても幸せな日々でした。
やはり、子宝に恵まれることはなく。優作くんのからだをろくに慰めてあげることも、できなかったけれど。
それでも私は幸せでした。優作くんの隣にいられるのだから幸せでした。優作くんも笑ってくれていたので、幸せでした。
予想したとおり、私の身体は優作くんと結婚してからちょうど十年で力尽きました。
かつて私が願ったとおり、真剣な瞳に看取られながら意識が薄れてゆくなか、最期に思います。

このひとの傷が生涯のものになりませんように。
私が汚してしまったこのひとの経歴が、ふたたび美しくありますように。
このひとの長い人生、生涯しあわせでありますように。
それは私以外のひととでもいいから、どうかどうか。

心からそう思いました。心からそう願えるくらいには、美しい彼の恋慕にふれつづけ、私の身勝手な恋慕もうつくしくなってくれました。
だけど霞みゆく視界、意識のなか、どこかで私はわかっていたような気がします。
彼の美しい恋慕は、きっと永遠湧き続けるのだと。
彼はきっと生涯、私のやもめであると。
それともそれは私の本当の本当の願望で、これこそがみにくい本性なのかしら。
そうやって自嘲すると同時に、私の命と恋慕は焼け落ちました。

さようなら、私のやもめさん。どうかあなたに蛆など湧かず、うつくしい花だけが咲きますように。