四年生、今年の秋の長期休暇は、殊更大変だった。そして大変、面倒だった。
家の手伝いが嫌だったわけではない。俺は普段学園にいるのだから、たまに帰った休みの時くらいは家の手伝いをするのが一人息子の役目というものだろう。
大変だったのは、よりにもよって帰省しているその機会に、変声期が始まってしまったことだ。
さらに面倒であったのは、俺の変声期が声がまったく出なくなってしまう類のものであったことだ。
しかもそれが終わるにはなかなかの時間がかかり、結果的には長期休暇のほとんどを、変声期に充ててしまっていた。
つまりは、俺は今回の長期休暇、両親とも、村の人間とも、俺だけが一方的な無言の時間を過ごすことになってしまったのだ。
俺は元より口数が多い方ではないが、だからと言って一切声が出なくなってしまっては当然日常生活に支障を来たす。
これがまだ、学園にいる時期ならよかった。読唇術など使えるはずがない両親とは、口の動きや身振り手振りで意思疎通を試みるもなかなか伝わらず一苦労。
そもそも俺が変声期で声が出ないという事情を知らない村の人間には、"また一段と変な奴になりやがって"などと不名誉な評価を受けてしまった。
無事変声期を終え、再び軽やかに声が出るようになってからは、恙無く日々を過ごし村の人間の誤解も解けた。
しかしそれなりに大変で面倒だったあの日々を笑い話にできるのほど時間を置くこともなく、少しだけ沈んだ気持ちを抱えながら登校日を迎え、俺は学園へと足を進めていた。
「うっわ。声ひっく」
そして、登校して第一にかけられた言葉が、これだ。
学園のどこもかしこも人はまばらで、だけど自室には先に登校して荷物を解いていた、同室の勘右衛門。
そいつに久しぶりの再会の挨拶をかければ、返ってきた言葉がこれだ。
そうやって、俺の声を低いと揶揄する勘右衛門の声だって、十二分に低いしなんだったら野太い。
勘右衛門は夏ごろに学園で変声期を迎えていた。
勘右衛門の場合は日に日に声が低くなっていく類のもので、十日経っても留まることを知らない変声期に勘右衛門が怯えていたのは記憶にまだ新しい。
最終的にここまで低く野太くなってしまった己の声に、当初はだいぶ茫然自失となっていたが、すぐに"まあこれはこれでアリだよね"と復活していた。
「そうか?」
「いやあ、だいぶ低いだろ。村の人に驚かれなかった?」
「特には。両親には、父の声に似ているとは言われたが」
荷物を降ろしながら勘右衛門の隣に腰掛けて、俺も荷解きを始める。
勘右衛門は俺の声を"だいぶ低い"と驚き称したが、そんな反応をもらったのはこれを初めてだ。
両親には、ひとまず"おめでとう"の言葉を受けて、それから父の声に似ていると言われた。確かに、自分でも、今の声は父に似ていると思う。親子なのでおかしくはないだろう。
村の人間には、特になにも感想はもらわなかった。正しくは、俺に対してこんな風に"だいぶ低い"なんて軽口を叩けるほど親しい人間が、村にはいない。
だけど、そうか。身内以外の人間から、客観的にもらった、俺の変声期後の声への感想は、"だいぶ低い"。
そうなのか。俺の声は低いのか。そりゃあ、変声期を終えたのだから、以前よりは低くなっていて当然なんだが。
何とはなしに、片手を喉元にあてる。一月ほど前よりもずっと、その身を主張している喉仏。適当に"あああ"と声を出せば、そこが振動した。
「ん?まだ声変わり終わってない?まだ声出にくい感じ?」
「いや、多分終わったと思う」
「そっか。兵助の声変わりは、どんな感じだったの?」
「一切声が出なくなったな」
「まさに声変わりって感じじゃん。いいなあ」
「声変わりの仕方に、いいも悪いもあるか?」
それを言うなら、俺としては声が出なくなることはなかった勘右衛門の声変わりの仕方のほうが、羨ましい。
声が一切出なくて、自分の思いを伝えるには唇を大げさに動かし、身振り手振りでどうにかするしか方法がなく、それすらもなかなか伝わらない、あのもどかしさ。
あんなことは、二度と御免だ。二度とも何も、身体的な理由で声が一切出なくなるだなんて、声変わり以外ではなかなかありえないことだろうが。
「いやー……でも本当に低くなったね」
「勘右衛門よりは高いと思うけど」
「お前、まだ完全に傷が塞がってない俺にそういうこと言う?」
「そうだったのか。ごめん」
「しかも俺の方が低いって?そんなことないよ、俺とお前、いい勝負だって」
「え。俺、そんなに低い?」
「低いよ。まあ、自分では案外気付かないか」
もう一度。もう一度、喉仏に手を添えて、適当に声を出す。
以前よりずっとずっと低くなった自分の声が、指先と、鼓膜を揺らす。
確かに、声は低くなっている。変声期を終えたのだから当然だ。
だけど、勘右衛門といい勝負の低さとまで、言われると。それはなかなかに、本当に、低い声なのではないだろうか。
村では誰からも声の高さへの感想をもらわなかったこともあり、ここにきてようやく、俺は自分の声の低さの程度に気付き始めた。
だからと言って、俺はいつの日かの勘右衛門のように半泣きで嘆くことはない。
いつかの勘右衛門のように、"俺のこの顔からこの声はないだろ!"と枕に顔を埋めて落ち込むことはない。
勘右衛門と違って、俺は声がいくら低くなろうが、困ることはないからだ。ない、はずだからだ。
「…………勘右衛門」
「なに?」
「俺の声、変ではないよな?」
「うん。低くて素敵な声だと思いますよ」
「そうか。ありがとう」
「でも兵助のその顔から出てくると、ちょっとびっくりするよね」
「それは、顔と声が合っていないということか?勘右衛門みたいに」
「………………傷付くわあ…………」
ごろん、とそのまま上体を倒して俺に背を向け横になってしまった勘右衛門。
その背中から発せられる禍々しい雰囲気に、これはなかなかに勘右衛門の機嫌を損ねてしまったことを知る。長年の付き合いで養った勘だ。
ごめん、と声をかけるも"うるさい、声低い"と一刀両断された。こうなってしまった勘右衛門は、少し放っておいたほうがいいというのも、長年の付き合いで知った。
ひとまず俺は手早く荷解きを終え、勘右衛門を一人にすべく部屋を後にする。
"勘右衛門の声も低くていい声だと思うよ"と退室際に声をかけたが、やはり"うるさい、声低い"と取り付く島もなかった。
それから、四年生長屋の廊下で会った八左ヱ門には"うおっ、声低っ!"と驚かれた。八左ヱ門の声は、長期休暇前と変わらない、変声期前のままだった。
同じく廊下で会った三郎と雷蔵にも"わあ……声、すごくなったね"、"顔との差異が激しいな"と驚かれた。二人は夏ごろからじわじわとゆっくり時間をかけて、今も変声期真っ只中らしい。
運動場で見かけた後輩の三郎次に後ろから声をかければ、ものすごく驚きながら振り向かれた。"誰かと思いました"と、少し涙目の三郎次を見て、悪いことをしたと反省した。
これらの反応から、やはり、俺の今の声はなかなかに低いらしい。そして顔と声が合っていないことも、こうなると嫌でも自覚しざるを得ない。
だけど、顔と声が合っていないからと言って。俺にできることは何もない。顔も声も、変えることなどできない。
気付けば、村を出た頃よりもずっと沈んだ気持ちで、学園内をあてもなく歩いていた。勘右衛門の機嫌は、今までの統計からいくと、まだ治っていないだろう。
そう思った矢先、少し先にある正門から敷地内に入ってくる人物。遠目からでも分かる、それは凪だった。
何を考えるでもなく、事務員のおばちゃんから渡された入門票にサインする凪に近付く。
俺に気付いた凪は、少しだけ目を丸めて、だけどすぐにはにかんで手を軽く振った。
俺も、手を振り返す。凪からも俺に近寄ってきて、改めて真正面から顔を合わせて"久しぶり"と声をかけられた。
それに俺も、"久しぶり"と返そうとして――――――できなかった。ただ頷くだけだった。
凪も、俺の声に驚くだろうか。
凪も、俺の声が低いと思うだろうか。
凪も、俺の顔と声が合っていないと、思うのだろうか。
それはなんだか嫌だなと思った。それはなんだか、悲しいなと思った。
だから声が出せなかった。凪に、この声を聞かせたくなかった。
そのくせ俺は、くのいち教室へと歩き出はじめた凪の半歩後ろを着いていく。声も出せないくせに。話もできないくせに。
だって凪に会うのも一月ぶりだから。せっかくこうやって会えたのなら、少しでも一緒にいたいと思うのが男のさがだろう。
だけど当然俺は、凪が口にする今回の休暇でのきょうだいとの思い出話に対して、相槌を打つこともできない。
一応、頷いてはいるのだが。前を歩く凪に、それが分かるはずもない。
だからすぐに、無言を貫く俺に疑問を覚えたのだろう凪が、立ち止まって振り向く。疑問を隠しもしない表情を浮かべて、じっと俺を見つめていた。
「どうしたの?」
「…………」
「ずっと黙ってるじゃない。…………機嫌、悪いの?」
首を振った。だけど相変わらず黙ったままであるので、あまり説得力がないなと自分でも思った。
機嫌は悪くない。機嫌が悪いのは勘右衛門だ。凪には関係のないことだけど。
機嫌は、確かに、悪くないけど。だけど朝からずっと、沈んだ気分だ。
今回の長期休暇は、ほとんどを声の出ない変声期に潰されて、疲れたよ。
学園に着いたら着いたで、みんなに声が低いと驚かれてばかりで、顔に似合わないと言われてばかりで、困ったよ。
どうにかしてくれよ、凪。そんな他力本願で、我ながら無茶なことを、考えてばかりいる。
「じゃあ、具合悪いの?」
「………………」
「…………もう、黙ってたら分からないでしょ!」
「……っこども……!」
まるで、きかない子供を、それこそ実際に見たことはないが、自分の弟達を叱るかのような口調で、そう咎められたものだから。
"こどもあつかいするな"と、怒り任せに言葉が出た。思わず声が出てしまった。途中で、口を噤んだが、もう遅い。
きょとんと、凪が目を丸くする。俺の声を聞いて、驚いている。ああ、やっぱり、驚いている。
だけどそれから少しの間を置いて、ゆるゆると凪の目は元の形に戻り、眉までもが下がっていく。
さらには、頬がわずかだけど、紅潮していって。髪の間から覗く耳までも、うっすらと可愛らしく、赤く染まってゆく。
そんな反応。今まで、誰もしなかった。こんな反応、凪が初めてだ。これは、どういった意味の、反応なんだろう。
頬に帯び始めた熱が、自分でもわかる。凪につられて、俺まで赤くなっているようだ。
お互い顔を赤くして向かい合って、立ちすくんで、無言が続いて。傍から見たら、俺たちは阿呆みたいだろう。
「…………」
「………………」
「……………………」
「…………………………」
「………………………………こ、声変わり、したの?」
先に、この気まずくてむず痒い、だけどけして居心地が悪くはない沈黙を破ったのは、凪のほうだった。
俺はそれに"うん"と、やはり低くなった声で答える。凪の頬が、さらに赤くなった気がした。
やっぱり、驚いているんだろうか。そりゃあ、まあ、久しぶりに会った人間の声が変わっているのだから、驚きはするだろう。
だけど、ここまでの反応を示すのは。どうしてなのか、教えてほしい。
「………………勘右衛門とか、他の奴らにも、低い低いって、言われて」
「…………そうね。けっこう、低く、なったわね」
「顔に合ってない、とかも、言われて」
「……………………」
「だから、黙ってたんだけど。凪にもそう思われたら、嫌だから」
俺はあまり明るい性格ではないし、前向きな思考回路の持ち主でも、ないと思う。
よく言えば慎重で、悪く言えば懐疑的。
だけど今は、それらとは違う感情が、俺を後押ししている。
顔を赤くして、俺と会話をしている凪を。顔を赤くして、俺の声を聞いている凪を前にして、慎重だとか、懐疑だとかに、浸っていられるわけがない。
その顔の熱が、この態度が。俺を沈ませるような理由でないことを、馬鹿みたいに、俺は今信じている。
「凪は、この声いや?」
「い、いやじゃない。そりゃ、最初は…………驚いたけど」
「じゃあ、すき?」
凪の両手をとって、俺の胸元へと引き寄せた。凪の手も、少しばかり熱を持っている気がした。
距離がさらに縮んだのをいいことに、俺は凪に顔を寄せる。
今回の長期休暇を迎える前に、ようやく俺は、凪の身長に追いついた。
今は、ほんの少しだけど、だけど確かに俺の方が、わずかながら背が高い。気がする。
眼前にある凪の真っ赤な顔から少し視線を落として、喉元を見つめる。
そこには、俺のように、出張った骨はない。どこまでもなだらかだ。
「………………す、すき。すごく、その…………格好いい、と、思う」
凪の声は、俺と違って、長期休暇前から何も変わってはいないけれど。
だけど、この言葉、その声は、前よりもずっと綺麗で可愛く聞こえるんだ。
なだらか喉元だって、細い手だって、まぶたの形だって、どれもが全部。
俺が男だから。そして凪が女だから。最初から知っていたことだけど、今改めて、俺は思い知ったよ。
「あ…………そう、です、か」
俺から聞いたくせに、俺が言わせたも同然なくせに、そう意識してしまうと今更ながら緊張して、言葉が上手く紡げない。
そのうえなぜか敬語になってしまったけれど、凪はそれに言及することもない。
凪も凪で、精一杯なのだろう。きっと今の俺と同じように。
顔を真っ赤にして、こんな近い位置で向かい合って、そしてまた無言が続く俺たちは、やっぱり傍から見ればただの阿呆だ。
それでもいい。阿呆でもいい。今だけは、今このときだけは。
村での大変で面倒だった日々も、学園に着いてからの困惑も、沈んだ気持ちも、全部吹っ飛んだよ。
凪が照れてくれるなら、嫌じゃないと言ってくれるなら。好きだって言ってくれるなら、それだけでいいよ。
この声は、凪のための声だよ、なんて。そんな頭が沸いたようなことを、柄にもなく思うんだ。
そうして声だけじゃなく、他のところも全部、凪のために男になっていけたらって。
そうやって、この細くて、あちこち傷だらけの手を持つ凪を、守っていけたらと、浮かれたことを俺は思ったんだ。