――――ああ、またやってしまったと、今回も俺は口にしてから気づくのだ。

俺の言葉は意図せず凪を傷付けてしまうようだと、自覚したのはいつのことだっただろう。
悪意を持って、傷付けてやろうという意思を持って、放ったわけではない俺の何気ない一言が、時折凪を傷つけていると知ったのは、いつのことだったか。
そもそも俺は、あまり悪意を込めて人に言葉を投げかけない。その方がよほど性質が悪いと、笑ったのは誰だったか。

そんな風に各々の回顧にふけるのは、後にするとして。
ひとまず俺が今すべきことは、目の前でだんまり俯きこんでしまった凪の機嫌を、どうにか直すことだ。
凪が俺の部屋に訪れてから、まだ四半刻と経っていない。二人きりになってそう間もないのに、この重い空気である。
気まずいのでじゃあ今日はこれでお開き、といきたくないのは、男のさがだろうか。
だって、まだ少ししか会話をしていない。指だって一本も触れていない。それなのに、恋仲の相手を帰せるか、というものだ。
そんな短い時間でこんな険悪な雰囲気になってしまう俺達もどうなんだと思わないでもないが、だけど仕方ないとも、思う。
だって俺は、こんな雰囲気にするつもりではなかった。凪を傷つけるつもりで、つい先ほどの言葉を放ったわけではないのだから。
だからこれは不可抗力だ。事故のようなものである。とにかくこのやむを得ない状況を打開すべく、俺はまず、凪の様子をしっかり伺うことにした。

俺の真正面で、正座して、膝の上におかれた手は固く握り締められている。
顔は、深く俯かせてしまっているので見えない。俺には頭頂部のあたりが向けられていて、表情はまるで読めない。
何かを発することもなく、何処も微動だにすることなく。自分の存在をできるだけ消すかのように、そっと静かに、凪はただそこに身を置いている。
凪は、怒ると大抵こうだ。暴れることも、怒鳴ることもない。ただこうやって、黙って、静かになってしまう。
悲しんでいるときも、このようだったと記憶している。あまりそういった面を凪は俺に見せないので、強い確信はないけれど、俺の記憶にある限りでは。
そこまで考えて、ふと思う。俺はてっきり、凪は怒っているものだと思っていた。俺の言葉に傷付いて、憤慨して、怒って、だから黙っているのだと。
だけど、もしかして悲しんでいる可能性もあるのではないか?そう、思ったのだ。
凪の悲しんでいるところなんて、滅多に見たことはない。見せてもらったことは、ない。
凪の涙だって、情事のさなか以外では、一度として見たことはない。
だから、可能性はとても低い。無に近い。だけど。だけれど。
悲しんでいるのだろうか。泣いているのだろうか。そこまで考えてしまうと、あとはもう体が勝手に動いていた。
元より近くにあった、俺と凪の距離を詰める。膝と膝が触れ合うほどに。そして俺は身をかがめて、下から覗き込むように、凪を顔を伺った。

「………………泣いてはいないのか」

身長差の関係から、あまり俺が凪を見上げることはないし、凪が俺を見下ろすこともない。
そうやって俺たちにしては珍しい見つめあいのなか確認した凪の顔は、泣いてはいなかった。
それに、安堵したような。だけど、少し惜しく思うような。複雑な心境のなかで、俺は気付く。
凪の眉は下がっている。口は固く引き結ばれて、だけどよくよく見れば瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。
ほんのわずかに、頬も紅潮しているような気がする。それは色気のある理由ではないことくらい、俺にだってわかる。
これは、もしかして。この表情は、もしかして。凪は、怒りつつも、悲しんでいるんじゃないだろうか。
もっと凪の表情を確認しようと、顔を近づければ、凪はぷいとそっぽを向いた。
俺もそれに続く。丸めていた背中を戻し、凪の顔の方へと、顔を寄せる。俺と再び目が合えば、凪はまた逆方向にそっぽを向く。
なんだ、これは。遊んでるんじゃないんだぞ、俺は。いや、凪だって、遊びではないんだろうが。
埒が明かないので、そのやりあいが五回ほど続いたあたりで、俺は凪の顔を両手で掴んだ。正面を向かせて、真っ直ぐに互いの顔を合わせる。
俺の手を外そうと、凪の手も抵抗をしてきたが、無駄に終わる。最後の抵抗かどうか、凪は視線ごと、目を伏せた。

「…………やめて」
「なにが」
「……見ないで」
「なんでさ」
「………………帰る」
「は?」

思いもよらない凪の帰る発言に、俺の力が緩んだ一瞬の隙。
その隙をついて、凪は俺の両手を叩き落した。そして音もなく、素早く立ち上がる。
一瞬、天上を見たのは、天井裏へと続く唯一の外せる天井板を確認するためだろう。
しかし幸か不幸か、その天井板の真下に、俺は今座っている。勿論、退くつもりはない。俺が退ければ、凪は天井裏を使って帰ってしまうのだ。
そして凪が、俺を蹴飛ばしたり、ましてや俺を踏み台にしてまで天井裏を使う野蛮な女ではないことも、十分に知っているので、そうなれば。
凪が帰るとなれば、あとはもう正面。障子を開いて帰るしかない。
ここは忍たま長屋なので、くのたまが来るのなら天井裏から、というのが暗黙の了解ではあるのだが、今は別の話になるのだろう。
そして凪は、こういうときの凪は、"帰る"と言えば本当に帰ろうとする女だ。それも、十分に知っていた。
だから俺は、その道を、障子を、塞ごうと思ったのだが、先に立ち上がっていた凪の方が行動は早かった。
なので俺はやむを得ず、障子に向かう凪の足首を掴んで、思い切り引っ張った。それは予想外だったのか、凪は思い切り体制を崩して、そして倒れた。

「いっ…………た」

くさってもくのたま。寸でのところで受身はとったようで、顔面を打ったりはしなかった。
倒してしまったことを多少悪くは思いつつも、これ幸いと、俺はそのまま凪に圧し掛かる。
ひとまずこれで、凪の身柄は押さえた。帰ってしまうことはない。
俺の下で、俺をどかそうと腕でも足でも暴れる凪が少し鬱陶しいが、まあ気にするほどでもないだろう。直におとなしくなる。

「退いて」
「…………」
「退いてってば」
「………………」
「どうして。私が帰るの、とめないときだってあるじゃない」

そう言われると、確かにそうだ。
凪が"帰る"と言い出すのはこれが初めてではない。だけど、足首を掴んでまで、俺が凪を引き止めるのはこれが初めて。
むしろ今までは、多少名残惜しく思いつつも、帰るという凪を見送ることが、ほとんどだったはずだ。
確かに、どうしてだろう。どうして俺は、今日に限って、凪を帰さないんだろう。
まだあまり会話していないから?まだろくに触っていないから?違うな、完全な間違いではないだろうけど。だけどどれも、しっくりこない。

「……お前が怒ってるだけなら、帰すよ。多分、その方がお互にいいだろうし。でもさっきの凪は、悲しんでいるようにも見えたから」
「…………」
「だったら、帰したくないなって、思った」

たぶん、これが正解なんだ。
意図せずとはいえ、凪を悲しませた張本人の俺が言うことでは、ないと思うけれど。
だけどきっとこれが、本音なんだ。だってさっきから、覗き見た凪の表情が、焼きついて離れない。
怒ってるだけならいいよ。完全に怒ってしまったお前と、怒らせた張本人の俺が、一緒にいたってどうしようもない。余計悪化するだけだ。だから一旦離れるのも、ありだろう。
だけど悲しんでいるなら。そうさせたのが俺であっても、悲しんでるお前と離れるのは嫌だなって、思ったんだ。
悲しませたのは俺だけど。その悲しみを慰める方法も、俺には分からないけど。でも、そう思ったんだから、仕方ないだろ。

「…………勝手ね」
「俺もそう思う」
「……ねえ。もう、暴れないから。少し退いて、重いの」

凪が暴れていたこともあり、確かにかなりの圧をかけていたから、俺は素直に少しだけ身を退いた。
ほっと、凪が小さく息を吐く。そしてじっと俺を見上げる。俺はずっと凪を見ていたけど、凪が俺のことを見るのは、久しぶりのような気がした。
凪と目が合って、凪が俺を見ていて、ありふれたことなのに、なんだかそれがとても嬉しかった。

「私がどうして怒って…………そして悲しんだか、分かるの?」
「俺の言葉が、気に障ったんだろ」
「そうね。私はただ、"鉢屋が私のことを兵助の嫁と呼ぶのが嫌"と言っただけで、"恋人扱いされるのが嫌"と言ったわけではないもの」
「…………」
「"兵助の彼女"とか。そう呼ばれるのは、嫌じゃないの。…………むしろ、嬉しいわ」
「……………………」
「ただ、鉢屋の"兵助の嫁"呼びが嫌なの。だって見たことある?その時の鉢屋の顔。憎たらしいったら、ありゃしないんだから」

それは、俺達が直前まで交わしていた会話だった。
俺の同級生の話をしていて、そこから少し派生して、凪が"鉢屋が私のことを兵助の嫁と呼ぶのが嫌"と本当に困ったように零した。
それに、俺は。そうか、と思ったんだ。凪は"兵助の嫁"と呼ばれることが、俺の女と呼ばれることが、──俺の恋人扱いをされることが、嫌なのかと。
だから俺は"じゃあ三郎にも他の奴にも、凪のことは俺の恋人だと思うなって言っておく"と口にして、凪は驚いた顔をして、そのまま黙り込んでしまった。
俺のその言葉に、凪は怒った。そして悲しんだ。きっと"恋人扱いされることそのものが嫌なわけではないのに"と思って、怒って、悲しんだのだろう。
正直、凪のその心境はよく分からない。嫁呼びも、彼女呼びも、さほど変わらないと思うんだが。
特に三郎なんて、常に人をからかって生きているような奴だし。そんな奴の戯言を、まともに受け取るだけ無駄だ。
だけど。"兵助の彼女"と、そう呼ばれるのは嫌じゃないと、むしろ嬉しいと、そう言ったときの少し照れた表情の凪は、とても可愛かったので。
これ以上事を荒立てまいと、凪を怒らせ、悲しませまいと、俺は物分りのいいふりをすることにした。俺らしくないが、まあたまにはいいだろう。

「分かった。じゃあ、三郎にだけ言っておく。凪を俺の嫁と呼ぶなと」
「…………」
「それでいい?」
「………………うん。だけどね」
「うん」
「別に、それだけじゃないのよ。それだけで、あんなに怒ったり…………悲しんだりしたわけじゃないの」
「…………他にも俺、何か言ったか」
「いいえ。ただ、兵助も悪気があって言っているわけではないと、今だって、いつだって、分かっているのに」
「………………」
「それなのに、いちいち真に受けて、怒って悲しんでる自分が…………情けなかったの」
「…………………………」
「ごめんね」

謝られてしまった。たぶん、というか確実に、今この状況で謝るのは、俺の方だろうに。それなのに俺が、謝られてしまった。
別に俺は、謝ってほしくない。謝ってもらう理由はないはずだ。今だって、いつだって。
凪が黙り込んだときも。帰ると言い出すことも。そして本当に帰ってしまったときも。
今だって、今までだって、そのときだって、確かに困ったり、悩んだり、虫の居所が悪ければ面倒だと思ってしまったときも、あるけれど。
謝れよと、凪が悪いと、胸の内で責めたことは、一度として、なかったと思う。
だって、それが凪だから。それが俺だから。それが俺と凪で、俺たちの、付き合い方だと思うから。
謝るとか、謝らないとか、嫌だとか、そういうものではないよ。それで済ませてしまえるものでは、ないし、そうしたくはない。

「情けなくないと思う。俺は、そうしてほしい」
「…………え?」
「俺の言葉を全部、真に受けてほしいよ。適当に聞き流されるのは嫌だ」
「…………」
「俺の言葉を真面目に聞いて、笑ってほしいし、…………怒ってもいい、悲しんでほしい。今までどおり、これからもずっと」
「………………」
「ああ、いや。本当は怒ったり、悲しんではほしくないし、俺にもそのつもりはないんだけど」
「…………ふふ。わかってるわよ、そんなこと。だけど、」

ひどいことを言うのね、と続けて凪は笑った。
そのまま凪は俺に向かって腕を伸ばして、首に抱きつく。とりあえず、俺はさらに凪に覆いかぶさり身を寄せた。肩口に顔を埋める。甘い匂いがした。
その匂いを堪能しながら、俺は凪の言葉を反芻する。"ひどいことを言う"。そうなんだろうか。そうなんだろうな。
口下手、そのくせ言い方が直球、言葉選びが悪い。そう揶揄される俺の言葉を、聞き流すな、真に受けろ、そして怒って悲しめと、言っているのだから。
俺だって悪人ではない。そして変な趣味もない。だから好きな奴を、凪を、わざわざ怒らせたり悲しませたりしたくはない。
だけど俺の言葉を、俺を、適当に流されるくらいなら。いっそのこと傷付いてくれと、思ってしまうんだよ。

「だから、そのたびに兵助が慰めてね」

なのに、そうやって。首に抱きつく力を強めながら、甘い声で、そんなことを言うものだから。
まるで俺の言葉を肯定するようなことを言うものだから。そうなれば俺だって、いいように受け取ってしまう。
少なくともこの状況で、そう捉えない男はいないだろう。だから俺が、それを受諾と捉えても、誰にも凪にすら、責められる謂れは、きっとない。

俺はこれからも凪に思ったとおりの言葉をぶつけて、凪はそれを真に受けて、時には喜んで時には怒って悲しむのだろう。
それを俺が、慰めていく。その方法なんて、よく分からないけど、だけど俺なりに懸命に。
それはなんて不毛でばかばかしくて、だけど愛おしいことだろうと、確かに強く思うのだ。